大斎節第4主日 説教

3月19日(日)大斎節第4主日

Iサムエル 16:1-13; エフェソ 5:8-14; ヨハネ 9:1-13, 28-41

今日の福音書朗読は、本来であれば1節から41節までを読まなければなりません。今日の説教も、省略された箇所を踏まえた内容になっています。ですので、礼拝後に家に帰られたら、ぜひ9章1節から41節までの全体を改めて読んでください。

さて、今日の物語は、イエス様が生まれつき目の見えなかった男の目を開いた、見えなかった人を、見えるようにしたというお話です。

生まれつき目の見えない人が見えるようになる。耳の聴こえない人が聴こえるようになる。歩けない人が歩けるようになる。不治の病が癒やされる。

そんなことが起こったら、私たちは大喜びするはずです。ところが今日の物語の中では、イエス様によって目が開かれて見えるようになった生まれつきの盲人と、この人を癒したイエス様が、ユダヤ人から非難され、攻撃されています。

「あなたが手術に成功したせいで、父のガンは跡形も無くなって、元気になってしまったじゃないですか!一体、どうしてくれるんですか!」そう言って医者を非難するような人がいるとすれば、それは全く理不尽なことではないでしょうか。

しかし今日の物語の中では、癒した人と、癒やされた人とが激しい攻撃に晒され、社会から排除されるということが語られているのです。

なぜ、生まれつきの盲人を見えるようにしたイエス様と、癒してもらった盲人が共に非難されているのか。その最大の理由は、今朝の福音書朗読でスキップした箇所に記されています。

14節にはこのようにあります。「14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日であった。」

イエス様の時代のユダヤ人社会では、善人と悪人、神に祝福された者と神に呪われた者とを分けるのは、神の掟であるモーセの律法に従って生活するか否かでした。安息日を守らない者は「聖い生活」の出発点で躓いた落伍者であり、神の呪いの下にあると判断されました。

そして、安息日に治療行為を行うことは、安息日に働いてはならないという掟を破る「罪」とされていました。そのために、イエス様は安息日を汚す罪人として非難されているわけです。

しかし、イエス様を罪人として非難する人々の前に、イエス様によって癒やされ、目が開かれ、見えるようになった生まれつきの盲人が立っています。それによって、ユダヤ人社会の中心にいる人々は、大きなジレンマに陥ります。

生まれつきの盲人の目を開き、見えるようにするなどということは、人間業ではありません。人には不可能なことです。

そこで、ユダヤ人たちは、「見えるようになった」と言っている男は、本当は盲目ではなかったはずだと考えます。彼らは彼の両親まで呼び出して、「この男はお前たちの息子なのか、本当に盲目だったのか、なぜ今見えるようになったのかと」問いただします。

しかし両親が、この男は自分たちの息子であり、盲目で生まれたと証言したことで、この男が生まれつきの盲人であったことを否定できなくなりました。

それでも、イエス様を罪人と断定したユダヤ人たちは、「生まれつきの盲人の目を開き、見えるようにした」イエス様の働きに、神の力を見ようとはしませんでした。

それどころか、「病」や「障害」は罪に対する罰なのだという因果応報的理解を盾に、癒やされ、目が開かれた男を「罪の中に生まれた者」として会堂から、ユダヤ人社会から排斥してしまいます。

イエス様が盲人の目を開いても、そこに働く神の力を見ることができない。何が、それほどまで、イエス様に敵対する人々の目を塞いでいたのでしょうか?

それは「絶対化」の罠です。私たちが「その中で」生活している政治制度も、行政機関も、経済システムも、教育制度も、キリスト教も含め、すべての宗教も、すべては人間が作り出したものです。

人が作り出したものである以上、どれほど優れた制度であろうが、組織であろうが、そこには限界があり、欠陥もあります。私たちの誰もが、人間が作り出したものは不完全だということを知っています。けれども、制度や組織を作り出した者たちと、それを回していく人々は常に、自分たちが生み出し、動かしているシステムを絶対化しようとします。

そして彼らは、他の人々が皆、自分たちが動かしているシステムのルールに従って行動し、生活することを要求するようになります。群衆の側にも、システムの中心にいる者の側に着いた方が安全で、得になるだろうという計算が働きます。

こうして、ある時、ある所で、人間によって生み出された、不完全で誤りに満ちたルールや制度やシステムが絶対化され、人々の目を塞ぎ、人をシステムの奴隷とします。

先週、インターネット上のいくつかのメディアで、ジャニー喜多川氏による少年たちへの性的虐待を扱ったBBCのドキュメンタリー番組が取り上げられていました。

説明の必要もないかと思いますが、ジャニー喜多川氏というのは、日本のほとんどすべての男性アイドルグループを輩出してきたプロダクジョン、ジャニーズ事務所の創設者です。

番組制作において中心的な役割を果たしたジャーナリストのモビーン・アザー氏は、ジャーナリスト、メディア、音楽業界、企業の「沈黙の壁」に驚いたと言います。関係するあらゆる組織が、ファンも含め、そこに関わるあらゆる人が、ジャニーズ教というカルトの信者のように、不都合な真実から目を逸らし、口を閉ざし、むしろ加害者を称賛しようとさえします。

力ある者の悪が賞賛され、絶対化され、その悪を名指しし、戦おうとする者は「和」を乱す者として非難され、排斥される。これは多くの「日本的組織」に巣食う巨大な闇です。ジャニー喜多川氏のケースは、その氷山の一角に過ぎないでしょう。

同様の問題は、教会の中にもあります。今日、直接に触れることはいたしませんが、教会の中にも、イエス様の語ったことに、彼のコミットメントに反するような「伝統」や「慣習」が沢山あります。

教会の外で行われていたなら、直ちに人権侵害として大問題になるようなことが、「信仰」の名の下に正当化され、今に至るまで温存されていることもあります。信仰が、伝統が、私たちを盲目にすることも、しばしばあるのです。39節で、イエス様はこう言われます。

「39 裁きのために私はこの世に来た。(それは)見ていない者が見、見ている者が盲目になるためである。」

「見えている」と思う時、私たちにはイエス様の姿が見えなくなります。しかし私たちが盲目であるなら、主は私たちの目を開いてくださいます。

ですから私たちは今朝、改めて、目を開かれるべき盲人として、主イエスの前に立ちたいと思います。

願わくは、生まれつきの盲人の目を開いてくださった主が、私たちの目をも開き、信じるべきイエスの姿を見させてくださいますように。