









3月23日(水)大斎節第5主日
エゼキエル 37:1-3,11-14; ローマ 6:16-23; ヨハネ 11:17-44
今朝の福音書朗読は、マルタとマリアの兄弟ラザロを、イエス様が再び「起こす」、甦らせる有名な物語です。
マルタとマリアという姉妹の名前は、ルカ福音書の10章にも、まったく別の文脈で登場します。恐らく、マルタとマリアと聞いた瞬間に皆さんが思い出すのは、ルカ福音書の方のエピソードでしょう。
マルタはイエス様と弟子たちをもてなすために忙しく働いていますが、マリアはイエス様の足元に座って彼の話に聴き入り、姉の手伝いをしようともしません。それに苛立ったマルタが、「私だけが働いているのになんともお思いにならないんですか?妹にも手伝うように言ってください」とイエス様に文句を言います。するとイエス様が答えて言われます。マルタは多くのことに気を遣っているけれども、必要なことは一つだ。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはいけない。
これがルカ福音書10章の物語ですが、この中には兄弟ラザロの名前は出てきません。ラザロがマルタとマリアの兄弟であったと記しているのは、ヨハネ福音書のこの箇所だけです。
今朝、福音書朗読から11章1節から16節を省略して読みましたが、飛ばした部分にも重要な要素が沢山あります。先週も皆さんにお願いいたしましたが、ぜひ今日の福音書朗読の箇所も家に帰ってから、1節から16節も含めて読み直してください。
今朝スキップをしたところで特に注目したいのは、3節の「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」という部分と、5節の「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」というところです。
ヨハネ福音書の中で、イエス様が愛した誰々、と言われているのは、マルタとマリアとラザロの他には、イエスの母を引き取った弟子しかいません。
イエスの母を引き取った、イエス様が愛された弟子というのは、ラザロのことではないかと考える人もいます。イエスの母を引き取った弟子が誰かは永久にわかりません。
しかし、イエス様がマルタとマリアとラザロの三人と、特別な関係にあったことは、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」という言葉からわかります。
しばしば、日本語で「愛する」と訳されるもとのギリシア語には ‘φιλέω’ と ‘ἀγαπάω’ とあって、 ‘φιλέω’ の方は「~だから」という条件付きの愛だけども、 ‘ἀγαπάω’ は無条件に愛する神の愛だ、というような説明がなされることがあります。
しかし、初歩的な語彙研究をすればすぐにわかることですが、そのような区別は一切ありません。実際には、‘φιλέω’ と ‘ἀγαπάω’ は互換的に用いられます。3節の「あなたの愛しておられる者」の場合、主語の「あなた」はイエス様で、動詞は ‘φιλέω’ です。‘ἀγαπάω’ ではありません。
もう一つだけヨハネ福音書16章27節の例を挙げます。「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」ヨハネ福音書16章27節です。
ここで「「父ご自身が、あなたがたを愛しておられる」というときの動詞も ‘φιλέω’ で、「あなたがたが、私を愛し」と言うときも ‘φιλέω’ です。ですから、マルタとマリアとラザロとイエス様と親密な関係が、動詞に ‘φιλέω,’ を用いるか、 ‘ἀγαπάω,’ を用いるかよって変わるわけではありません。
イエス様との親密さの故に、ラザロが重い病に倒れたとき、マルタとマリアは「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」との伝言を託して、イエス様の元に人を送りました。
二人の姉妹は、ラザロが重い病気で倒れたとイエス様が聞いたら、すぐに駆けつけて彼を癒してくれると期待していたはずです。ところがイエス様は、ラザロの病について知らされても、急いでラザロの所に駆けつけようとはしません。それどころか、そのまま二日間、同じ場所に留まります。
イエス様はなぜ、すぐにラザロのもとに駆けつけなかったのでしょうか。その理由は明らかです。イエス様は、ラザロが死ぬのを待っていたのです。
イエス様がマルタとマリアの住む村に到着したのは、ラザロが死んで、洞穴の墓地に葬られて4日後のことです。マルタもマリアも、ラザロが死ぬ前にイエス様が到着してくれれば、ラザロの病は癒されて死なずに済むと信じていたことでしょう。
彼女たちが共に発した、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」という言葉からは、「どうしてもっと早く来てくれなかったの!」という失望と非難の入り混じった想いが感じ取れます。
二人はイエス様のことを心から信頼していたはずです。だからこそ、イエス様も、彼女たちを特別に愛したのでしょう。しかしイエス様に全幅の信頼を置くマルタとマリアも、死んだ者に対しては、イエス様と言えどもできることは何もない、そう思っていました。
マルタの、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」という言葉は、イエス様の弟子たちの誰一人、イエス様が死んで復活するなどとは思っていなかったことを示しています。
しかしイエス様は、「ラザロ、出て来なさい」と叫んで、ラザロを死から命へと呼び出します。
今日の福音書朗読の物語は、全体として二つのことを私たちに教えようとしています。
まず、ラザロの死と甦りは、イエス様自身の死と復活とを予め指し示す役割を担っています。
この物語が私たちに伝えようとしている第2のことは、イエス・キリストは、私たちをも死から命へと呼び出すことのできる方だということです。私はここに、「宣教的な意味」をも見ることができるのではないかと思わされました。
イエス様の不在によってラザロは死にました。教会も、イエス様が「不在」でもできることばかりをしていれば、死んでしまいます。
ほぼ毎週木曜日、洗礼後の学びとして英語で創世記を読んでいるのですが、話の流れの中で、Sさんがこんな言葉を漏らしました。
「私が日本のミッションスクールについて驚いたことは、礼拝が自由になっていることです」。韓国のミッション・スクールでは、全生徒が礼拝に与ることが義務となっていて、大学でも礼拝出席は卒業のための条件となっているそうです。
「日本ではそうではないことに驚いた。」Sさんがそう言われるのを聞きながら、瀕死状態にある日本の教会とミッション、宣教について思いを巡らせました。
日本にもミッション・スクールとか、キリスト教主義の学校と言われるものが沢山あります。教会が始めた幼稚園や保育園も沢山あります。ミッション・スクールや教会附属の幼稚園で、園児や生徒やその親たちがクリスチャンじゃないのは、普通のことでしょう。
しかし、ミッション・スクールや教会の幼稚園で働く教師がノンクリスチャンで、理事のメンバーもキリスト教徒ではないということになれば、そこにイエス・キリストはいないわけです。
ミッションを担うのは、イエス様によって死から命へと呼び出された者たちであり、死から命へと呼び出してくださったイエス様を愛する人たちです。
イエス・キリストが不在のところに、託された使命、ミッションがあるはずもありません。イエス・キリスト不在の活動を、「宣教」と呼ぶのは馬鹿げたことです。
ラザロを死から命へと呼び出されたイエス様、聖マーガレット教会を、この教会が生まれた女学院を、死から命へと呼び出し、あなたが与えられたミッションに、命の息を吹き込んでください。