









4月9日(日)復活節第2主日
使徒 2:14a,22-32; ペトロ 一 1:3-9; ヨハネ 20:19-31
ディディモ、双子と呼ばれるトマス。気の毒なことに、彼は毎年、この復活節第2主日に、不名誉な注目を浴びることになっています。
家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの前に、復活のキリスト・イエスが現れたとき、なぜかトマスだけがそこにいませんでした。他の10人からイエス様が現れたと聞かされたトマスは、かの有名なセリフを吐きました。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」。
そして、このセリフの故に、トマスは毎年毎年、復活節第2主日が訪れる度に「疑り深いトマス」として注目を浴びることになったわけです。
けれども、よくよく考えてみれば、トマスが言っていることに、何もおかしいことはありません。死人が生き返るはずはないのですから、おかしいことを言っているとすれば、それは残りの10人の側です。健全な疑いを働かせているとしてトマスを称賛することはあるにせよ、彼をdisる理由など、どこにもないはずです。
そもそも、イエス様の弟子たちの誰一人として、イエス様が死んでしまうとは思っていませんでしたし、ましてや、死んだ後に復活するなんてことは一ミリも考えていませんでした。
毎年、イースターの度にお話をしていますが、復活のキリスト・イエスは、彼を支えた女性たちにまず現れました。復活の主の最初の証人は、皆女性でした。
けれども、復活のイエス・キリストが最初に女性たちに現れたのは、彼女たちは墓に葬られたイエス様が復活すると思っていたからではありません。
誰一人、「さあ、十字架につけられて三日目になった。そろそろイエス様は復活してるはずだから、探しに行こう!」とは言いませんでした。この点については、女性たちも同じでした。
その上、イエス様を支えた女性たちも、ペテロもヨハネも、他の弟子たちも皆、「甦りの主が現れたから」、イエス・キリストは復活されたと信じました。トマスだけがことさら疑り深い男だったわけでも、不信仰だったわけでもありません。
もちろん、ヨハネ福音書の著者は、復活のキリストを見ずにクリスチャンになることが祝福なんだ、幸いなんだと言うために、今日の福音書の物語を書きました。
ですから、ここにいる私たちが皆、復活のキリストを見ずにクリスチャンになったことは、祝福であり、大いに喜ぶべきことです。
もちろん、私自身も、復活のキリストを見たことはないのに、キリストの弟子になりました。もし私が、「私には復活のキリストが見えるんだ!今も復活のキリストが私の前に立っている」と言い始めたら、無理矢理にでも私を病院に連れて行ってください。
私は教会の牧師ですから、復活のキリストを見ずに、彼の弟子となる人が沢山起こされて、Jesus Movementの担い手となってくれることを心から願っています。
しかし同時に、私は復活のキリストを見ずに弟子となるすべての人々に、皆さんに、トマスになっていただきたいのです。
世界は悪人に溢れています。人を騙して金儲けしようとする者がいます。人身売買のブローカーが、貧しい家の娘や若い女性を騙して性奴隷にしようと、世界中を飛び回っています。
先日は、聖マーガレット教会のメールアドレス宛に、信者たちを送り込んで、数年がかりで教会を丸ごと乗っ取るカルト団体から、ZOOMミーティングへの招待状が舞い込みました。
私たちが悪の存在する世界に生きていることは明白です。アウグスティヌスのように、悪は善の欠如に過ぎないのだから、善と同じような存在ではないと言ったところで、その欠如としての悪に大きな力があるという事実は変わりません。
悪の存在する世界に生きているからこそ、私たちには正しく疑う力が、evidenceに基づいて、証拠に基づいて判断するスキルが必要なのであり、疑いのないところに知恵は生まれません。
もし、この国に健全な疑いを持つ人がもっといたなら、統一教会と一つになって国民を欺き、食い物にし続ける政党の支配がこれほど長期に渡って続くことは無かったでしょう。
あるいは、原子力に関わる人たちに、正しく疑う力があったならば、世界で起こるマグニチュード5以上の地震の10%が襲うこの地震大国の海岸線に、54基もの原発を並べることはしなかったでしょうし、フクイチの事故を防ぐこともできたはずです。
この国の防衛について決定する人々に、疑う力が充分に備わっていたなら、敵地攻撃能力は何の役にも立たないし、そもそも日本はどの国と戦争をしても絶対に勝てないことがわかるはずで、防衛費を二倍にしようなどという愚かな政策決定に至らないはずです。
健全に疑うことができないのは、疑いを超えて支えてくれる存在が無いからではないでしょうか。
「あらゆるところ」に、機能不全の兆候が見られ、そのまま放っておけば壊滅的状態になることがわかっていながら、「これまでのやり方」や「今」を「変えられない」のは、健全な疑いのそのものが排除されているしるしです。
しかし、世界をつくり、命を与えられる神は、復活のキリスト・イエスを弟子たちの前に現すことによって、疑うことを可能にしてくれました。
私は牧師ですけれども、自分の信仰について、神について、イエス・キリストについて、毎日疑っています。常に自分の信仰を批判し続けています。それでも、今も神を信じています。復活のキリストを信じています。
不思議な言い方かもしれませんが、私にとって神は、私が疑うことを可能にしてくれる根拠です。
神は、どれほど深い疑いの向こう側にも、あらゆる「否定」、「すべての否」を超える希望を、「しかり」を、死を超える命を示してくださる。復活のキリストの現れは、そのしるしです。
ですから、皆さん、安心して疑ってください。信仰の領域を囲い込まずに、開いておいてください。信仰を知的探求の領域から外さずに、信仰に留まる知的根拠を問い続けてください。
正統信仰を掲げてウクライナでの戦争にお墨付きを与えるロシア正教会も、パレスティナでの不法な入植活動を承認する超正統派のユダヤ教も、「疑いの余地を持たない信仰」が巨大な悪を生むことを、現在進行形で世に示しています。
宗教が再び巨悪を生み出しているこの時代に、この世界で、主が託された神の国の平和と喜びの証人となるためには、自らの信仰を疑いながら、キリストの弟子として歩みを続ける人が必要です。
主が皆さんを、疑いつつ信じるトマスとしてくださいますように。