復活後第4主日 説教

4月30日(日)復活節第4主日

使徒 6:1-7; Iペトロ 2:19-25; ヨハネ 10:1-10

復活節に入ってから、もう少し正確には、聖木曜日の洗足の礼拝以降、毎週言い続けていることを、今日も繰り返させていただきますが、復活のキリストの最初の証人は皆、女性たちでした。

これはどんなに強調しても、強調しすぎることのない事実なので、皆さんがもう聞き飽きて、絶対に忘れられないというくらいまで、これからも繰り返し言わせていだだきます。

絶望に沈み、自分たちも捕らえられて殺されるかもしれないと怯えていた男の弟子たちに、十字架の上で殺され、墓に葬られたイエス様が甦られたと告げたのは女性たちでした。使徒たちも、女性たちの証によって、復活の主に出会うことができました。

父なる神が、イエスを死から再び起こされた、その最初の証人が女性たちであったのは、単なる偶然ではありません。

イエス様が宣べ伝えた神の国の福音は、イエス様が女性たちから学んだ二つの cornerstones、角の親石の上に、この世にはない、まったく新しい共同体を立て上げようとするプロジェクトでした。この共同体を支える二つの角の親石は、食事を整えて給仕をすることと、足を洗うことでした。

イエス様の宣教活動を支えるために、食事を整え、給仕をしてくれたのは、十二使徒ではありませんでした。それは、マグダラのマリアや、ベタニアのマリアやマルタのような女性たちでした。

イエス様は、ローマ皇帝の強力な軍隊によって生み出される「ローマの平和」、Pax Romana は、本当の平和ではないばかりか、武力による支配を目指す男たちの論理が、絶えざる戦争を生み出すことに気づいていました。イエス様は、戦争の合間に表れるPax Romanaに代わる、本当の平和を作る道を探し求めていました。

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、彼の神の国運動に加わったのも、新たな平和の道を探る途上でのことです。しかしバプテスマのヨハネの神の国の中心には、イスラエルの敵を討ち滅ぼしてくれる、ダビデのような有能な軍事指導者としてのメシアがいました。

例えダビデのような優れた戦略家の王がイスラエルに現れ、束の間、ユダヤの人々がローマ帝国からの「解放」を味わったとしても、それが永続的な平和をもたらすことはない。そのことに気づいて、イエス様はバプテスマのヨハネの神の国運動からは離脱したのでしょう。

イエス様がバプテスマのヨハネと袂を分かって、自分の神の国運動を始めたとき、彼はまだ、自分の宣べ伝える神の国が、何の上に立てられるべきなのか、はっきりと知ってはいませんでした。

彼は、病の人を癒し、悪霊を追放し、旅を続ける中で、自分の働きを支えてくれる女性たちの中に、彼女たちの働きの中に、永続的な平和をもたらし、喜びに溢れる共同体を生み出す力を発見しました。

それは、イエス様が、自分が生み出そうとしている新たなコミュニティーの土台を、女性たちから受け取ったということです。

父なる神が、死者の中からナザレのイエスを甦らせた。それが示しているのは、食事を整えて給仕をすることと、足を洗うことの上に新しい共同体を立てようとするイエスのプロジェクトと、神が始められた天地創造の業が目指すところ、オメガ点とが一つだということです。

神の国の二つのcornerstones、角の親石を、女性たちがイエス様に与えたからこそ、復活の最初の証人も女性たちなのです。

さて、今日の第1朗読で読んだ使徒言行録はルカ福音書の続編にあたりますが、「ルカ」は福音宣教の拡大を、使徒たちを主人公にした物語として描こうとしています。

「ルカ」はペトロやパウロを中心とする使徒たちを前面に押し出しつつ、イエス様の宣教活動を支えた女性たちを背後に追いやります。

ルカ福音書の中では、女性たちは空の墓を発見するだけで、復活のキリストは女性たちに現れません。復活のキリストは、シモン・ペトロを中心とする男の弟子たちにだけ現れるのです。こうしてルカは、本来、女性の弟子たちに帰されるべき栄誉を、使徒たちへと移し変えます。

しかし使徒たちを英雄とする福音拡大の物語を書くために、女性たちを背後に追いやるという決断には、大きな副作用を伴っていました。それは今日の第1朗読で読まれた使徒言行録第6章1節から7節の中にも見てとれます。

「ルカ」は十二使徒の一人にこう言わせます。「私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。」直訳は、「食卓で給仕をするために、私たちが神の言葉を放り出すのは喜ばしいことではない」となります。

食事を整え、食卓で給仕をすることは、神の国の土台です。それはイエス・キリストが、すべての共同体のメンバーに対して命じていることです。ところが、イエス様が弟子たちの前に現れなくなって半世紀以上が過ぎると、教会はすでにイエスの命令を忘れ、食事を用意して給仕することの力を見失います。

そして、こう言うのです。「4 私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

紀元後の4世紀以降、教会の歴史の大部分を支配してきたキリスト教は、祈りと聖書朗読と黙想に最高の価値を置く「修道制」を中心に据えるキリスト教です。このキリスト教は、ローマの軍隊によって、暴力によって、東西ローマ帝国全体に「普遍化」しました。

あなた方の中で、もっとも偉くなりたい者は、皆の奴隷になりなさいと言われたイエス様が、「食卓で給仕をするために、私たちが神の言葉を放り出すのは喜ばしいことではない」などと言うはずはありません。

私があなた方の足を洗ったように、あなた方も互いに足を洗い合いなさいと命じた主は、「私たちは祈りと言葉に仕えることに専念します」とは言わせなかったでしょう。

教会が女性たちの声を押さえ込み、男を中心に据えた組織として発展するのに伴って、教会は、女性たちが担っていた働きが持っていた、平和と喜びを生み出す力を見失いました。

私たちは、イエス・キリストについて語ろうとする聖書の言葉の中にすら、イエス様を否定する力が、神の国の福音に反する力が働いている、という現実と向き合わねばなりません。

だからこそ、私たちは聖霊の導きを求め、批判的に聖書と向き合いながら、今、私たちが生きているこの時代に、この場所で、食事を整えて給仕をし、互いに足を洗い合う共同体になるとはどういうことかと問い続ける必要があるのです。

共に食事を用意し、人々を招き、給仕をし、互いに足を洗い合うことによって、平和と喜びを生み出すコミュニティー。

その具体的な目指すべき姿を、この杉並区松庵の地に遣わされている私たち聖マーガレット教会に、復活の主が示してくださいますように。