









5月7日(日)復活節第5主日
使徒 17:1-15; Iペトロ 2:1-10; ヨハネ 14:1-14
今朝の福音書朗読の前半部分、ヨハネ福音書14章の1節から6節は、葬送式の朗読箇所の一つとして指定されていて、マーガレット教会で使っている葬儀式文でも、この箇所が用いられています。
私は、ご葬儀の中で「私の父の家には住まいがたくさんある」と読む度に、「クリスチャンでない方たちはきっと、ギリシア神話やローマ神話に出てくる、パンテオンのようなものを思い浮かべているんだろうな~」との考えが、瞬間的に頭をよぎります。
今日の福音書朗読は14節までになっていますが、ヨハネ福音書の著者が、このテキストを通して何をしようとしているのかということは、少なくとも29節までは読まないと見えてきません。
1節の冒頭は、「あなたたちの心は乱されるな」というのが直訳ですが、普通の日本語にすれば、「心配するな」「動揺するな」「不安になるな」というところでしょうか。
もちろん、「心配するな」という言葉は、今、すでに心配している人に向かって発せられる言葉です。ですから、「心配するな」「動揺するな」「不安になるな」という1節冒頭の言葉は、動揺して、不安を感じている弟子たちに対して語られているわけです。
ヨハネ福音書の物語の文脈で言えば、14章はイエス様が十字架に架けられる前の話です。では、「心配するな」「動揺するな」「不安になるな」と言われている弟子たちは、「イエス様が十字架にかけられて死んでしまったら、その後どうなってしまうんだろう」と不安になっているのでしょうか?
そうではありません。ヨハネの福音書に限った話ではありませんが、福音書の著者たちは、事後に、全ての事が起きた後に、福音書を書いています。福音書を書いた人たちは皆、復活のキリストが弟子たちに現れたことを知っています。
だからこそ、イエス様をメシア、救い主だと信じる共同体が生まれたわけですし、福音書の著者たちも、その共同体のメンバーとして生活をしているわけです。
ですから、ヨハネ福音書の背後にある教会のメンバーたちが、「十字架にかけられて殺されてしまったイエス様が、その後どうなってしまうんだろう」と不安に感じているということはあり得ません。
ヨハネ福音書の著者は、自分が所属している教会が、別の不安、別の恐れによって動揺しているために、この共同体を勇気づけ、立ち直らせるために、新たに福音書を書くことにしたのです。
では、ヨハネ福音書の著者が所属する教会を不安に陥らせたものは、何だったのでしょうか?それは、すぐに帰ってくると思っていたイエス様が帰って来ないということでした。
新約聖書に収められているすべての書物は、すぐに帰ってくるはずのイエス様が帰ってこなかったがために書かれることになりました。
新約聖書に収められている書物は、書物そのもの時系列に沿って読んでも、うまく理解できません。むしろ、新約聖書を読むときに押さえておくべきもっとも重要なポイントは、そこに収められている書物はすべて、帰ってくるはずのイエス様が帰って来なかったために書かれることになったということです。
イエス・キリストへの信仰は、その初めから、書かれたマニュアルに従って導かれるようなものではありませんでした。
だからこそ、すぐに帰ってくると思っていたイエス様が、世紀の変わり目に近づいているというのに帰って来なかった時、弟子たちの群れは動揺し、「親に捨てられたみなしご」のような気持ちになったのです。
復活のキリストの出現によって弟子たちの中に燃え上がった大きな希望の火が、再び消えようとしていました。その弟子たちを慰め、励まし、再び信仰の火を燃え立たせるために、ヨハネ福音書の著者は、もう一つの福音書を書いたのです。
だからこそ14章の18節で、著者はイエス様に、「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言わせているのです。
自分たちが期待したほどすぐに、イエス様が帰ってこなかったのは、父のもとで私たちのために居場所を用意してくれているからだ。でも、準備が整えば、私たちを迎えに来てくれる。
キリストが父に至る道であることを疑わず、主が始められ、私たちに託された働きを続けなさい。しかもイエス様が父なる神にお願いをして、もう一人の弁護者である聖霊を送ってくださる。その霊によって、イエス・キリストが私たちと共にいて、行くべき道を示してくださる。そうヨハネ福音書14章は言うのです。
さらにヨハネ福音書の著者は、トマス、フィリポ、イスカリオテでないほうのユダを引き合いに出して、弟子たちはイエス様のことを「誤解」していた、あるいは「理解していなかった」と言います。
弟子たちがイエス様のことを「誤解」していた、「理解していなかった」というヨハネ福音書の「理解」は、すぐにイエス様が帰って来てくれるという期待が実現しなかったという結果から導き出されたものです。
これは、イエス・キリストの弟子として歩む信仰は、聖霊に導かれて次の行き先を決める旅であり、「現在」の理解は常に暫定的だということをよく表しています。
イエス様自身すら、自分が父のもとに帰った後、いつ、どういうかたちで戻ってくることになるのか、知ってはいませんでした。
新約聖書という書物が生まれることになったのも、期待通りに進まない信仰の不確定性、暫定性の故でした。
同じことを別の言葉で言えば、イエス・キリストと共に歩む信仰の中には、絶対的で、確実で、何が起きても揺らがない100%の安心というのは無いということです。
旅は冒険であり、そこにはハラハラ、ドキドキがあります。次に何が起こるかわからないスリルがあります。ときには不安になったり、心配になることもあります。
しかし、イエス・キリストと共に歩む旅には、自由があり、創造性の余地が大いにあります。そして、私たちが聖霊に導かれて自由にされ、創造性を豊かに発揮するときにこそ、共同体の生活のレベルで、父のもとにおられる復活のキリストを現すことができるのです。
絶えざる暫定性と不確実性の中にあっても、主が私たちに与えられた使命を生きることによって、復活のキリストが私たちのただ中に現れ、聖マーガレット教会に喜びと平和をお与えくださいますように。