復活節第6主日 説教

5月14日(日)復活節第6主日

使徒 17:22-31; Iペトロ 3:8-18; ヨハネ 15:1-8

バルメン宣言の起草者として、またドイツ告白教会のリーダーとして知られるスイスの神学者、カール・バルトは、20世紀最大の神学者と評されることがあります。しかし、バルトの名声を揺るぎないものにしたのは、優れた神学研究によってというよりも、むしろ彼の政治的スタンスのためでした。

Gerhard Kittel, Paul Althaus, Emanuel Hirschといった「大神学者」たちが、そしてドイツの多くの教会が、ヒトラー政権の掲げる「ドイツ民族に仕える、ドイツ的キリスト教」というイデオロギーに取り込まれていく中で、バルトはこれに真っ向から立ち向かいました。

バルトは、ドイツ的キリスト教というイデオロギーを受け入れる者たちを、リベラル神学の信奉者たちとして一括りにした上で、自然神学を絶対的に退けるべきだと主張しました。

自然神学というのは、神が創造された世界を、理性を用いて見ることによって、神を知ろうとする営みですが、神学の歴史の中で、バルトが登場するまで、自然神学が全否定されたことはありませんでした。

しかしバルトは、啓示の書としての聖書を通してでなければ、神について何も知り得ないという立場を掲げ、自然神学を認める者は、主イエス・キリストへの忠実から教会を逸脱させる者だと見做しました。

ところが聖書のテキストそのものの中には、旧約聖書の中にも新約聖書の中にも、自然神学的要素が無数にあります。

今朝の第1朗読で読まれた「アレオパゴスにおけるパウロの説教」は、その全体が、自然神学と呼んでも過言ではない内容になっています。

ルカは使徒言行録で、教会が生まれ、福音がそこから世界へと広がっていく宣教上の中心としてのエルサレムから、この世の政治の中心、ローマ帝国の権力と軍事力の中心であるローマへと福音が広がっていく様子を、ドラマ仕立てで描こうとしています。

今日の第1朗読の舞台であるギリシアのアテネは、教会の歴史の中で、アンティオキアやエフェソやコリントのような、キリスト教の拠点とはなりませんでした。

それにも関わらず、アテネでの宣教活動についてルカが詳細に語っているのは、アテネがヘレニズム世界の、つまりギリシア語が学問の言語として君臨する知的世界の中心と見なされているからです。

アレオパゴスはアテネにある丘で、そこには議会が招集されたり、裁判が行われる広場がありました。アレオパゴスはギリシア語で ‘Ἄρειος πάγος’ で「アレイオスの丘」という意味です。アレイオスはギリシア神話の闘神、戦争の神で、ゼウスとヘラの息子です。このアレイオスは、ローマ神話の中ではマーズと呼ばれ、英語の3月、Marchの語源になっています。

パウロは、ギリシア神話の神の名を冠するアテネの広場で、ギリシアの人々に福音を伝えようとしているのです。

アテネの人々に向かってパウロが語っている説教の中には、旧約聖書からの引用は一切ありません。

まずパウロは「知られざる神に」献げられた祭壇の神を、イエス・キリストを甦らせた父なる神と同一視した上で話を始めます。

次にパウロは、神殿を中心とするユダヤ教と対立するような、驚くべき主張を展開します。

天地を造られた神は、「人の手で造った神殿」になど住まないと言うのです。エルサレムには神殿があり、そこは神の臨在の場であり、神への捧げ物が献げられるべき唯一の場とされていたにも関わらず、です。

神が世界を造ったという考えも、神は「人の手で造った神殿」になど住まないという主張も、ストア派の哲学者たちを初めとして、多くのギリシア人にとって、すんなり受け入れられるものだったはずです。

何よりもパウロは、世界を造り、一つの民族からすべての民族を生み出した神は、すべての人に神をお求める思いを与え、「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」ということを前提に話をしています。

そればかりかパウロは、「我らもその子孫である」というギリシア詩人の言葉を引用し、「私たちは神の中に生き、動き、存在」する「神の子孫」なのだと言って、ギリシア人の神理解を受け入れます。

ユダヤ人たちが「偶像崇拝者」として批判をする古代メソポタミアの人たちも、パウロが語りかけているギリシアの人々も、金や銀や石で造った像そのものが神だなどとは思っていませんでした。

ですから、アレオパゴスでパウロが行った説教の大部分、22節から29節までに展開されている神に関する理解は、パウロと多くのギリシア人が容易に共有しうるものでした。

このことが示しているのは、バルトによる自然神学の全否定とは正反対に、パウロは、ギリシア人の神理解とイエス・キリストの福音とを接続することに、何も問題を感じてはいなかったということです。

バルトがどれほど偉大な神学者であったとしても、人間の理性は堕落していて無力であり、啓示の書物としての聖書を通してでなければ、神について何事も知り得ないという彼の立場は、聖書のテキストから導き出されるようなものではありません。むしろバルトは、自分の神学的好みを、聖書のテキストに押し付けているのです。

もちろん教会は、そしてすべてのクリスチャンは、「まことのぶどうの木」につながっていなくてはなりません。

「まことのぶどうの木」、イエス・キリストから切れているどころか、「私たちはキリスト教とは関係がありません」と主張しながら展開される活動を「宣教」と呼び、そこに人材とお金と時間を注ぐような愚かさを、絶対に避けなくてはなりません。

しかし、もし私たちが、「聖書を通してしか神について知ることはできません。『まことのぶどうの木』につながっているために、聖書以外のものから影響されないようにしましょう」と言い始めたらな、それは私たちがカルト集団になったということです。

他の領域と一切繋がりが無く、特定の集団が、特定の資料からのみ知り得る絶対的な「真理」を保持していると主張するとすれば、それは陰謀論かカルトです。

陰謀論者やカルト信者が「知っている」と主張する「真理」は、常に、自分たちだけが持っている特定の情報源によって、自分たちにだけ知られているのだということになっています。

その「真理」に反する証拠や、証言がいくらあっても、陰謀論者やカルト信者の「確信」は揺るぎません。なぜなら、彼らの真理は、外の世界と一切繋がりがないからです。

自分たちだけが持っている特別な情報源によって、自分たちだけが知っているとされる「真理」はすべて、知的自殺行為によってのみ保持しうる妄想に過ぎません。

その信奉者とその周辺の人々は、この妄想によって蝕まれ、妄想を共有する者たち同士でしか話が通じなくなり、その結果、妄想の奴隷としてしか生きていけなくなります。

ロゴスをもって神が創造された世界を通して現れる、すべての真理に心を開き、あらゆる領域から学び、新たに学んだ真理を通して、より深くイエス・キリストを理解するという循環の内に留まること。

それこそが、真理であり、まことのぶどうの木であるイエス・キリストに忠実につながり続けるための最善の道です。

聖マーガレット教会がまことのぶどうの木につながり続けることによって、真理を求めるすべての人々に、復活のキリストを通して示された神秘と真理を示す群れへと成長することができますように。