復活節第7(昇天後)主日 説教

5月21日(日)復活節第7(昇天後)主日

使徒 1:(1-7),8-14; Iペトロ 4:12-19; ヨハネ 17:1-11

先週の木曜日、5月18日の木曜日は、教会の暦の上では、昇天日という祝日でした。昇天日は毎年、イースターの日曜日から数えて40日目の木曜日と決まっています。

そして、今日の第一朗読の箇所が、復活日から数えて40日目を「昇天日」とする根拠とされています。1章の3節にはこのようにありました。

「3 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」

度々言っていることですが、使徒言行録はルカ福音書と、もともとは大きな一つの書物の前編と後編です。

「ルカ」は、これぐらいイエス様の誕生から初めて、教会がエルサレムからローマへと広がってゆくところまでを扱う一大巨編を書いたわけですが、それは今日的な意味での歴史書ではありません。それは主に、パウロの立場に沿って、教会の存在とその教えを弁護することを目的に書かれた歴史小説です。

そして、新約聖書の中で、イエス様が天に昇られた「場面」について言及しているのは、ルカ福音書24章50節から53節と、使徒言行録1章6節から11節に2ヶ所しかありません。

実は、ニケヤ信経や使徒信経も、教会暦も、主に「ルカの書物」に従って大枠が作られています。

今日の福音書朗読はヨハネ福音書からですが、ヨハネ福音書の中に「昇天」の物語はありません。ついでに言えば、ヨハネ福音書にはペンテコステ、聖霊降臨の物語もありません。

ヨハネ福音書に昇天はありませんが、神のもとから降ってきたロゴスなるキリストが、再び神のもとに帰還することを告げています。

ヨハネ福音書は、「はじめにロゴスがあった。またロゴスは神のもとにあった。そしてロゴスは神であった」という言葉で始まります。

そして、このロゴスが降ってきた様子を、1章14節はこのように語ります。「また、ロゴスは肉となり、私たちの間に幕屋を張った。そして私たちは彼の栄光を見た。(それは)父から生まれた唯一の者としての栄光であり、恵みと真理に満ち溢れていた。」

ギリシア語の「ロゴス」という言葉は、英語でも、日本語でも、一つの言葉に訳すことができません。

イエス様や使徒たちと同時代に活躍していたストア派の哲学者たちは、ロゴスをすべての現実に行き渡る活動的理性原理にして霊的原理と呼びました。また、彼らはロゴスのことを、摂理、自然、神、宇宙の精神とも呼びました。

紀元前1世紀前半から3世紀までの中期プラトン主義哲学者たちは、ロゴスを、世界に内在すると同時に世界を超越する、神の精神として理解しました。

紀元前6世紀後半から5世紀前半に活躍したギリシアの哲学者にヘラクレイトスという人がいます。彼はロゴスについてこのように語ったとされています。

「(宇宙の)ロゴスはここに説明した通りである。しかし、人々(男たち)は、これを聞いた後も、これを初めて聞いたときも、いつも、これを理解できない。すべてのものはこのロゴスに従って存在するようになったにも関わらず、彼らはそれに出会ったことがないかのようである。」

ヨハネ福音書に親しんでいる人であれば、「彼は世界におられ、世界は彼によって成ったのに、世界は彼を知らなかった」という1章10節との類似性に気づかれるでしょう。

神はロゴスをもって世界を創造され、そのロゴスが、神のもとから降って来て、肉を取り、人々の間に住まわれた。だからこそ、ロゴスの受肉であるイエス・キリストは、私たちに神様がどのような方かを正しく教えることができる。また、イエス・キリストはロゴスの受肉であるが故に、彼が地上で成されるすべての業は、神ご自身の業なのだ。

そうヨハネは言います。

しかし、神が成させようとしておられたすべての業を成し終えて、受肉のロゴスであるイエス・キリストが、父のもとに帰って、父と共に持っていた以前の栄光を再び取り戻すときが来た。

今日の福音書朗読の4節と5節は、そのように語っています。

ヨハネ福音書においては、イエス・キリストは父のもとから来られたロゴスの受肉なので、イエス・キリストが父のもとに帰る、父のもとから来たロゴスが、父の内に「帰る」のは自然なことなのです。

しかし、奇妙な表現かもしれませんが、神のもとから来られたロゴスと、神のもとに帰るロゴスとの間には、大きな違いがあります。

これもまた変な言い方かもしれませんが、神のもとから降ってきたロゴスは、神の情報を私たち人間にもたらしてくれました。

つまり、神様の側が、ロゴスを通して、人間の世界の側にアクセスしてくれたわけです。それによって初めて、私たちはそれまでに知ることのできなかった神の姿を、愛をもって世界を創造し、愛をもってその世界とそこに生きる者たちに命を与えてくださる神を、直接経験し、知ることができるようになりました。

しかし、イエス・キリストにおいて肉を取ったロゴスが父のもとに帰る時には、反対方向のことが起こります。

受肉のロゴスがナザレのイエスにおいて一人称で経験した情報が、人としての喜びや悲しみ、愛や憎しみ、賢さや愚かさ、痛みや、苦しみや、弱さが、神様の内側にもたらされました。

言葉を代えれば、世界にあって生きる人の命が、神のもとに帰られた受肉のロゴスを通して、神ご自身の経験となりました。

こうして、神とロゴスとが一つであったように、ロゴスの受肉であるイエス・キリストを介して、神の領域と人の領域とがつながり、一つとなり、私たちは神の内に生きる者とされました。

私たちは今、復活のキリストの姿を見ることはできません。けれども、受肉のロゴス、イエス・キリストが父のもとに帰ったおかげで、私たちはすでに神の内に生きることができるようにされました。

使徒たちも、使徒時代の教会のメンバーたちも、教会がこの世に、こんなに長居することになるとは思っていませんでした。

しかし、教会はその結果として、使命を帯びることになりました。それは、イエス・キリストにあって神の内に生きるときに実現する豊かな命と平和を、教会の生き方を通して世に示すことです。

そして、その使命の中心に食事があります。食卓で互いに仕え合うことがあります。

今日、お昼の時間に、コロナ前には毎月第2金曜日に行われていたひつじカフェがプレオープンします。

ひつじカフェは牧師主導で始まったものではなくて、信徒の方たちのワーキンググループが、「どのようにしたら、新しい人を教会に招くことができるか」と考え、話し合いを重ねた末に生まれた働きです。

そして、コロナ禍の前には、カフェの働きを通して、普段ほとんど教会に来られることのない方や、教会にまったく来たことのない方が、本当に沢山、マーガレット教会に足を踏み入れるようになりました。

今年、どのようにカフェを再開するかを考える中で、人材を確保しやすいこと、近隣の方々も招きやすいこと、主日の午後に食事を提供することにもつながることから、月に1回、日曜日の午後にカフェを開催する運びとなりました。

ひつじカフェの場が、イエス・キリストにあって神の内に生きる命の豊かさと平和を、教会のメンバーたちも、また教会の外の人たちも、共に味わうときとなるよう、お祈りください。そして、友人や家族を誘って、ぜひご参加ください。