聖霊降臨後第3主日 説教

6月18日(日)出エジプト 19:2-8a; ローマ 5:6-11; マタイ 9:35-10:8

今朝の福音書朗読は、ひと言で言えば、イエス様が弟子たちを派遣することが語られている箇所です。

弟子たちを派遣する目的は明白です。イエス様が宣べ伝えている天の国の福音を語り、天の国の到来のしるしとして、人々の病を癒し、悪霊を追い出すためです。

「マタイ」は、十二使徒を送り出すに当たって、イエス様がこう命じたと語ります。

「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」

ところが「マタイ」は、自分の福音書の最後を、こう締めくくっています。

「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ 28:18-20

この一見対立するイエス様の命令について説明するために、10章の命令はイエス様の言葉だけれども、28章のいわゆる「大宣教命令」は、後の教会の言葉だと言われることがあります。あるいは、イスラエルを中心とした宣教の範囲の輪が、イエス様の復活後に、異邦人やサマリヤ人にも拡大したと説明されることもあります。

しかし、マタイ福音書が書かれた時代の状況と、マタイ福音書全体を通して読み取れる意図に照らし合わせると、どちらの説明も正しくないと思われます。

マタイ福音書が書かれたのは、恐らく紀元後の80年から90年の間です。その頃には、異邦人への宣教は大きな成功をおさめていたのに対して、ユダヤ人への宣教は望むような拡大を見ませんでした。大部分のユダヤ人は、使徒たちが語ることを受け入れなかったのです。

これがマタイ福音書の時代背景です。

そして、10章の十二使徒の派遣の直後には迫害の警告あり、それに続くのはイエス様の拒絶です。

イエス様は、会堂から、ユダヤの町や村から、生まれ故郷のナザレから、宣教拠点であったカファルナウムから拒絶されます。ファリサイ派、サドカイ派、律法学者、長老、祭司長を中心とする神殿当局者、エルサレムの最高法院が、イエス様を退けます。

エルサレム入城後、イエス様はイスラエルに対する神の裁きとして、神殿の崩壊を予言します。そしてマタイ福音書は、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」という大宣教命令で締めくくられます。

実は、ここで「民」と訳されている言葉は、10章5節の「異邦人の道に行ってはならない」という命令の中に出てくる「異邦人」と同じ ‘ἔθνος’ という言葉です。

マタイ福音書10章以降の文脈から見る限り、28章19節は「すべての民」ではなくて、「すべての異邦人」を意味しているはずです。

マタイ福音書の著者が所属している教会は、メンバーの大部分がユダヤ人の教会です。つまり、マタイ福音書の教会は、多数派のユダヤ人から退けられた、超少数派のユダヤ人共同体なのです。

なぜ自分たちが超少数派に過ぎないのか。なぜイエス・キリストの福音が、異邦人に対して語られるようになったのか。この二つの問題に対してマタイ福音書の教会が見出した答えはこうでした。

異邦人に向けて福音が語られるようになったのは、主流派のユダヤ人たちがイエス・キリストを退けたからだ。自分たちが超少数派のユダヤ人共同体なのは、自分たちこそがレムナント、神への忠実を失わなかった「残りの民」だからだ。

マタイ福音書の教会が主流派ユダヤ人に受け入れてもらえないことに悩んだように、明治以降の再宣教によって生まれた日本の教会も、主流派の日本人に受け入れてもらえない現実に、もどかしさを感じ続けてきました。

しかし、イエス様が語った言葉は、イスラエル社会の中心にいる人たちにも、主流派のユダヤ人にも受け入れられはしませんでした。

けれども、「羊飼いを持たぬ羊のように放置されている群衆」にとって、イエス様の言葉は「良い知らせ」でした。

権力者に見捨てられ、社会の中心にいる人たちからは神に呪われ希望の無い者として蔑まれている人たちが、イエスの言葉を福音として聞き、そこに希望を見出しました。

この事実は、聖マーガレット教会が、私たちが刈り取るべき豊かな実りがどこにあるのかを考える上で、とても大切な指針です。

今の日本社会の状況は、イエス様の時代のイスラエルに、ますます近づいています。

過去の栄光にしがみつき、世界の変化に目をつぶり、既得権益にしがみつく人々が、今も日本社会の中心に居座り、「主流派」を構成しています。

Innovationも開発投資もない日本経済は、国際競争力を失い、売り上げも減少の一途を辿っています。ところが経団連に所属する大企業の多くは、経常利益を確保し、内部留保を積み上げ続けています。なぜでしょうか。

それは非正規雇用を無限に拡大して賃金を抑制し、中小企業に値下げを強要し、さらに大企業を支持母体とする政権からの税制優遇措置を受けているからです。

ちなみに、消費税は福祉のための税金などではありません。消費税は、大企業と富裕層に対する税制上の優遇措置による減収分を、一般国民に肩代わりさせるために導入されたのです。これによって何が起きているのか。大企業の役員報酬は上がり続けています。

ところが、国民全体の家計収入の指針となる世帯あたりの年収中央値は、ピークだった1995年の550万円(平均 659万6千円)から、2020年にはの440万円まで下落しています。

2013年、時の首相はアベノミクスをぶち上げました。円安に誘導し、輸出関連の大企業の収益を改善させれば、トリクルダウン (trickle-down) によって賃金が上昇し、10年後には世帯収入を150万増やすことができる。そう大風呂敷を広げました。

アベノミクスに「経済学的」お墨付きを与えたのはイェール大学名誉教授の浜田宏一氏でしたが、150万円収入が増えるはずだった今年、トリクルダウンは起きず、経済が望ましくない方向にいっていることを、あっさりと認めました。

実質的な通貨切り下げによって、輸入に依存している食糧、エネルギー、資源の全ての価格が跳ね上がり、その結果、ありとあらゆるものの値段が上がりました。食料品のパッケージは小さくなり続け、空気しか入っていないのではないかと思うほど中身が少なくなりました。

大企業の顔色とアメリカの顔色を見ながら既得権益を守ることに終始する政治は、社会の病を悪化させ、益々多くの人々を苦しめています。

ひとり親家庭の貧困率は55%に迫り、男女の賃金格差もまったく是正されず、女性の社会進出も進みません。雇用は不安定、賃金は安い、セーフィティーネットは縮小するばかり。

実質的に、教育が塾や予備校などの受験産業によって乗っ取られていて、家計に占める教育費の負担がそもそも大きいのに、教育関連の公共支出はOECD諸国中最低。

かつて、結婚して子どもを育てることは「普通」のことだと思われていましたが、今やそれが特権階級の贅沢になった。それが日本の現実です

このような二極化が進み、格差が拡大するこの日本で、福音によって収穫されることを待っているのは誰か。誰にとって、イエス・キリストの福音は希望の知らせとなるのか。

それは「普通の生活」ができない人々です。

収穫を待つ人のもとへ、主が私たちを遣わしてくださいますように。