聖霊降臨後第5主日 説教

7月2日(日)聖霊降臨後第 5 主日(特定 8)

イザヤ書 2:10-17; ローマ 6:3-11; マタイ 10:34-42

皆さんは、友人や知人から、「キリスト教にすごく関心があります。聖書にはどんなことが書かれているんですか?」と聞かれたら、聖書のどの箇所から、どんな話をされるでしょうか?

聖マーガレット教会には、「お祈りも聖書も、司祭さんにお任せなのが、聖公会のいいところ」なんて方はおられないと思います。しかし、キリスト教のことをまったく知らない人に対して、今朝の福音書朗読の箇所を開いて話をしようと思う人は、恐らくいないでしょう。

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」

今この1節を読むと、フランスで続いている暴動の様子が頭をよぎります。6月27日、フランスのパリで、黄色いメルセデスを運転していたNahelという17歳の少年が警官に射殺されました。

武器を持たないアフリカ系フランス人の少年が、至近距離で頭に銃撃を受けて死亡した事件は、人種差別の現れと見なされ、デモが全国に拡大しました。その一部は暴徒化し、車や建物に火を放ち、店舗を略奪するという状況にまで発展しました。

しかしイエス様は、今のフランスや、パレスティナや、シリアや、ウクライナのような状況をもたらすために来たと言っているわけではありません。

今日の箇所に限らず、福音書のイエス様の言葉が、「文字通り」のことを意味しているケースはほとんどありません。イエス様は過激なレトリックを用いることで、固定化したものの見方を揺り動かし、新たな世界の見方と、新たな神の姿を私たちに教えようとします。

イエス様がここで何を言っているのかを知る鍵は、「剣」がもたらされる場所にあります。イエス様がもたらす剣は、エルサレムでの暴動でもなければ、ローマ帝国に対する武装蜂起でもありません。

イエス様がもたらす剣は、息子と父親、娘と母親、義理の娘と義理の母との間に現れます。彼がもたらす剣は、血縁を切り裂くのです。

イエス様の時代、ユダヤ人たちは強固な血縁の上にのみ「平和」があると信じていました。なぜなら、約束の民としてのイスラエルは、血縁によってのみ、純粋な血統を維持することによってのみ、保たれると見なされていたからです。

それはそのまま、家族主義、同族主義、部族主義、そして民族主義となります。「家の顔に泥を塗った」と見なされる者を待ち受けている運命は、石打による名誉殺人か、絶縁宣言を伴う家からの追放でした。

しかしイエス様は、神の国は血縁の中には無いと断言します。いえ、それどころか、神の国の民となるためには、血縁を絶対的なものとみなす視点を放棄しなければならないと言います。

ここにイエス様の深い洞察があります。家族主義、同族主義、部族主義、民族主義を貫いているのは血統主義です。

しかし、現実には、家と家とは争い、部族衝突は何百年にも渡って続き、民族主義は戦争を生み出し続け、民族浄化を掲げる虐殺行為へと、今も人々を駆り立てています。

この世の平和を維持する上で、最も大きな責任を負っているはずの権力者たちは、自分の権力を維持するためであれば、家族を殺害することも厭いません。

最初の「クリスチャン皇帝」と呼ばれるコンスタンティヌスは、二番目の妻のファウスタを処刑し、自分の長男を処刑し、姉妹の夫バシアヌスを処刑し、もう一人の姉妹、コンスタンティアの夫、リキニウスの暗殺を命じ、その息子のリキニアヌスをも殺害しました。

そこまで大きな話にならなくとも、遺産相続をめぐる骨肉の争いの話は、身近なところにいくらでもあるでしょう。

私自身は、家族関係に問題がないという人に、ほとんどお目にかかったことがありません。もちろん、会うなり、「私の家族は大きな問題を抱えてるんです」なんて人はいません。けれども、少し話が深くなると、ほとんどの人が、親子関係や家族関係に、なんらかの問題を抱えていることがわかります。

端的に言って、血縁が、血統主義が、「平和」を生むという考えは、根拠のない幻想に過ぎません。だからこそ、神の国の平和を作るためには、血縁が平和を生むという幻想から解放される必要があります。

そのために、イエスが語られた神の国の福音は、血縁が平和の絶対的土台だと思っている人々の間に、分断をもたらす剣となるのです。

これはまず、イエス様にとっての現実でした。イエス様の血縁の家族は、彼が始めた神の国の最初の反対者でした。イエス様がもたらした剣は、まず彼自身の家族の中に分断をもたらしました。

では、イエス様が、血縁に基づくこの世の平和に代えて生み出そうとしている神の国の平和は、どこにあるのでしょうか?

それは、命を与え合うことの中にあります。この世にあって、この死せる体にあって生きる命は、時間的に限られています。命を支えるために、命に仕えるということは、自分の時間を、他者の命のために与えることです。

実は、私たち一人ひとりの命は、誰かが、私の命のために、自分の命をささげてくれているから、時間を犠牲にしてくれているから保たれています。

しかし、他者の命を生かすために、自分の命を与えることを、自分の時間をささげることを知らない者は、人を自分のための道具にし、人の命を犠牲にし、平和を破壊します。

この世で自分が支配者になろうとする者は、誰一人、人々を生かすために、民を救うために、自分の命をささげたりはしません。

偉大な皇帝も、王も、長期政権を維持する政治家も、人々に自己犠牲を求め、命を賭けて国のために戦うようにと命じはします。しかし、そう命じる当の権力者、あるいは指導者たちは、決して、自らの命を差し出すようなことはしません。

1週間前、Wagner Groupの司令官のプリゴジンが、1日で終結したクーデターを企てたとき、プーチンはサンクトペテルブルクに逃亡し、ベラルーシのルカシェンコはトルコへと逃亡しました。

国を守り守るためには、憲法を改正し、自衛隊を自衛軍として位置付けることが必要だと訴える政権政党の中に、自ら最前線に出て行って命を投げ出したりする人間などいはしません。

しかしイエス・キリストは、人々に永遠の命を与えるために、神の国の平和を与えるために、ご自分の命を与えられました。

今、世界中で平和が壊れている中で、平和を作るために必要なのは、命を生かすために、命を支えるために、互いに命を与え合う人々の共同体です。

イエス・キリストの福音に応答し、連帯する人たちがいなければ、イエス様が始め、託された神の国の平和を作る運動が止まります。

暴力に満ち溢れる世界で平和を作るために、命の与え主である聖霊が息吹き、命を与えることによって命を得るイエス・キリストの弟子たちを生みだしてくださいままように。