













7月9日(日)聖霊降臨後第6主日
ゼカリヤ 9:9-12; ローマ 7:21-8:6; マタイ11:25-30
今朝の福音書朗読は、非常に短い箇所です。しかしその中には、イエス様は神をどのような方として理解していたのか、イエス様がその到来を告げ知らせた神の国(天の国)の中心に誰がいるのかということが、見事に圧縮された形で示されています。
25節と26節で、イエス様はこう言われます。
「天地の主なる父よ、私はあなたに讃美をささげます。あなたはこれらのことを知者や教養人たちからは隠して、それらを幼な子たちに明らかにされました。父よ、まさに、そうなることが、あなたのみ前に喜ばしいことだったのです。」
父なる神が、「幼な子たち」に対して明らかにされた「これらのこと」というのは、イエス様が宣べ伝えていた天の国(神の国)のことです。
イエス様の時代、「幼な子」という言葉に肯定的な意味はありませんでした。「幼な子」という言葉が、「純粋」「美しい」「未来」「希望」「無限の可能性」といった肯定的な意味と結びつくことは、まったくありませんでした。
「幼な子」は汚くて、うるさくて、飯だけ食って、何の役にも立たない、煩わしい存在であり、「幼な子」(‘νήπιος’)という言葉そのものが、「浅はかな者」「教養の無い者」「バカ者」を意味する言葉として用いられました。
私は、日本社会がイエス様の時代のイスラエルに似て来ていると感じる事が度々ありますが、子どもの扱いにおいても、今の日本とイエス様の時代のイスラエルの状況とが、重なってきているように思います。
確か昨年のことだったと思いますが、長野県長野市の住宅街にある公園が、たった一人の住民の苦情によって廃止されることになったというニュースが、世間を騒がせました。
2004年から子どもたちの遊び場として親しまれてきたこの公園は、今年の4月で閉鎖されてしまいました。
「児童センターに迎えに来る保護者の車のエンジン音や公園で野球をして遊ぶ子供たちの金属バットの音がうるさい」。「子どもの声がうるさい」。「子どもたちが走り回ってほこりが舞い、車が汚れる」。「午前中は遊ばせるな」。「午後からの利用は一度に5人までにしろ」。
18年間に渡って、こうした苦情を言い続けた男性は、国立大学の名誉教授でした。
このニュースに対して、一人のお笑い芸人がこうコメントしました。
「子どもの声がうるさいというより、1人のこのような大人の声の方がうるさいと思うんですよ。そういう(大人の)声は何で我慢できるのか。子供の声を我慢できないのに、なんで1人の大人の声は…。子供には我慢させているわけじゃないですか。“じゃあ騒がないで”とか。でも大人は“騒いでるからうるさいよ”って言えるっていう、立場の強い人が立場の弱い人を抑えつけている感じが、どうしても僕からは見えちゃうんですよ」。
子どもの声は我慢できないけれども、我慢できない大人の声や主張に対しては、誰も「うるさい」と言わず、むしろ忖度をして、結果的に、声が大きい大人の都合のいいように事が決められていく。
そのような社会の風潮を批判して、彼は公園閉鎖のニュースに対する自分のコメントを、このように締めくくりました。
「もう今どうしようもないですよ、子どもって。だから(子どもが)必要のない存在にされちゃっている感じがして、僕はちょっと許せないです。必要なものとされているはずなのに、大人たちから必要のないものに無理やりさせられているというか。納得のいかないことが多いです」。
このお笑い芸人の言葉は、今日の福音書朗読の内容と大きく重なっていますし、日本中の教会が、真剣に向き合うべきものだとも思います。
イエス様は今日の箇所で、自分の周りに集まって来て、神の国の福音の中に希望を見出した人たちのことを「幼な子」と呼んでいます。
それは女性であり、異邦人であり、「賢い人たち」が行くような学校に行く時間も可能性も無い貧しい者たちであり、社会の最底辺に置かれた、声なき人々でした。
イエス様のもとにやって来て、神の国の福音を聞き、その中に希望を見た「幼な子たち」は、「知者」や「教養人」に対置されています。
この「知者」や「教養人」という言葉は、イスラエル社会の宗教指導者、権力者、大地主、あるいは奴隷のオーナーといった、「社会の中心にいる大人たち」を指して用いられています。
それに対して、「幼な子たち」というのは、富や権力や宗教的権威を持つ「大人」によって利用され、搾取され、軽蔑され、人間として扱ってもらえない人たちのことです。
そして、この国では未だに、子どもたちは、福音書の中の「幼な子」のままのようです。汚くて、うるさくて、飯だけ食って、何の役にも立たない、煩わしい存在のままなのです。
大人たちは、誰も子どもたちの声を聞こうとしません。そのために、汚くて、うるさくて、煩わしい存在である子どもたちを抱えた親たちの多くが、子育てに悩みます。
社会に子どもの居場所がない上に、ジェンダー平等のランキングで146カ国中125位の日本では、多くの母親が一人で子育てを抱え込み、行き詰まります。
しかし、社会の中心にいる大人たちは、子育てに悩む親たちの声さえ聞こうとはしません。そんな国で子どもを生んで育てようなどと到底思えない、というのは当然のことだと私は思います。
そして同じ問題が、教会にもあるのではないでしょうか。
私は1980年台半ば以降、教会生活をしてきました。けれども、これまで一度たりとも、教会の中心にいる大人たちが、「子どもたちの声を聞きましょう」「若い人たちの声を聞いて、彼らのための居場所をつくりましょう」と声を上げるのを、聞いた事がありません。「子育て中の親たちの話を聞こう」という声が上がるのを聞いたこともありません。
教会は、「大人たち」が踏みつけ、利用し、使い捨てにし、声を上げることすらできない「幼な子たち」の声を聞き、その人たちの魂が安らぎを得、命が回復されるところでなくてはならないはずです。
しかし、そのようなことが可能になるためには、イエスの軛はなぜ負い易いのか、イエスの荷がなぜ軽いのかを学ばなくてはなりません。
彼の軛が負い易く、彼の荷が軽いのは、イエス様から神の国を学んだ者たちは皆、他の人の命を生かすために働く人になり、結果的に、互いに支え合うことになるからです。
そうであれば、本来、教会の中には、共同体の命を支えるために何ができるかを考える人はいても、自分がしてほしいことを要求する人はいないはずです。
ところが、残念ながら、日本の多くの教会で、教会の中心にいる大人たちが、自分のしたいことをして、してもらいたいことをしてもらって、自分たちの居心地が良いことに満足してきました。
日本中の多くの教会が、日本社会の過ちをそのまま繰り返し、気がつけば「幼な子たち」が教会からいなくなっていました。
本当は、「幼な子たち」がいて、子育てに苦しむ親たちが安らぎを得ることができるような教会には、いえ、むしろそのような教会にだけは、すべての人の居場所があって、すべての人の命が癒されることになります。むしろ「大人たち」しかいない教会は、死んでいます。
幸い、聖マーガレット教会には、まだ「幼な子たち」がいます。しかし、子育て世代は非常に少ないです。私たちはそのことを深刻に受け止めるべきです。
神の国は、「幼な子たち」に明らかにされました。神の国の中心にいるのは「幼な子たち」です。
願わくは、私たち聖マーガレット教会が、「幼な子たち」の声を聞き、「幼な子たち」を迎え、子育てに苦しむ親たちが安らぎを得、すべての命が回復されるコミュニティーへと成長することができますように。
