聖霊降臨後第7主日 説教

7月16日(日)聖霊降臨後第7主日

イザヤ 55:1-5,10-13; ローマ 8:9-17 ;マタイ 13:1-9, 18-23

今日の福音書の朗読は、間違いなく、イエス様の例え話の中で最も有名なものの一つ、種蒔きの例え話です。

私は学校で、毎週金曜日の午前中に「チャプレンアワー」という、生徒の保護者の方々を対象にした聖書勉強会を担当しています。参加されている方たちのほとんどは、娘さんたちが入学したことをキッカケに、キリスト教と接点ができた方々です。

今はマルコの福音書を読んでいるんですが、私はその聖書の勉強会の中で、イエス様という人の生き方と、彼の教えについて、2つのことを何度も何度も繰り返しお話しています。

一つは、イエス様はパーティー大好き人間で、呼ばれたら誰の家で行われるパーティーにも足を運んで、大いに食べて、大いに飲んで楽しんだということです。

もう一つのことは、イエス様が神の国について人々に教えるとき、常に例えで話をされたということです。

イエス様が例え話に使う題材は、イエス様の時代の人々であれば誰でも知っている、日常の生活や、さまざまな出来事の中から取られています。今日の種や種を蒔く人以外にも、イエス様の例え話に用いられる題材にはこのようなものがあります。

塩、光、真珠、結婚披露宴、パン種、スズメ、野のユリ、羊と羊飼い、ぶどう酒と皮袋、ぶどうの木、ぶどう園、毒麦。

ここで挙げたものが題材になっているイエス様の例え話がどんなものか、皆さんすぐに思い出せるでしょうか。「いくつ覚えているかテストします」なんてことはないので、ご安心ください。

ただ、教会生活の長いクリスチャンでも、イエス様の教えの大部分が例え話だということの意味と、そのインパクトを、ほとんど意識していない方が多いんです。

イエス様の教えの大部分が例え話だということは、イエス様の教えは旧約聖書の解説でもないし、旧約聖書から取られているわけでもないということです。この点は、今日の福音書朗読の種蒔きの例えを理解する上でも、とても大切です。

今日のイエス様の例え話を理解するためには、旧約聖書の知識はまったく必要ありません。旧約聖書をよく知っているからといって、イエス様の話をよく理解できるというわけではないんです。むしろ、旧約聖書をよく知っている人たちは、イエス様の話を理解できなかったし、イエス様のことを受け入れもしませんでした。

イエス様は9節で、「耳のある者は聞きなさい」と言います。聴覚に障がいがなければ、誰でも音が聞こえます。声が聞こえます。けれども音や声が聞こえることと、語られていることを理解することとは、決してイコールではありません。

例えば、同じ先生が担当している、同じ数学のクラスに出席している生徒たちが、みんな同じように数学ができるようになるわけではありません。どんなに「良い数学の先生」が教えても、どうしても数学はわからないという人はいなくなりません。

これは別に数学に限った話ではなく、国語でも、英語でも、物理でも、化学でも同じです。すべての人が、すべてのことについて、同じように、聞く耳を持っているわけではないわけです。

では、イエス様の教えを理解する耳を持った人というのは、どんな人でしょうか。

イエス様の例え話の題材が、日々の生活や誰もが知っている出来事から取られているということは、イエス様は、日々の当たり前の出来事の中に隠れた神様の働きを、神秘を見ておられるということです。

そうすると、イエス様の語る例え話を理解するためには、当たり前の日常の中に、目の前にあるものや、足もとで起きていることの中に、神様の働きを、神秘を見るセンスが必要だということです。

イエス様の教えの中心にある神の国は、直接に見ることができるような形では存在しません。「これが神の国です」と言えるような形では、世界に存在しません。

しかし神の国は、あたりまえのものや、あたりまえの出来事の中に、神秘を見ることができる人の創造的想像力、creative imaginationを通して、その姿を現します。

ですから、イエス様の教えを聞いて、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ、耳のある人というのは、ありふれた日常の中に神様の働き、神秘を見ることのできる人ということになります。

今日の話の最後に、大急ぎで付け加えたいことが一つあります。それは、種が落ちる場所は変化するということです。

「私は道端だから永遠に実を結べません」とか、「自分は石だらけの所なので、イエス様の言葉を聞いても、全部枯れちゃいます」なんてことはないんです。

実際、十二使徒たちにとっても、イエス様の教えはチンプンカンプンで、イエス様が本当は何を言おうとしていたのか、誰も分かっていませんでした。

一人の人がずっと道端なのではなく、一人の人がずっと茨なのでもありあせん。むしろ私たち一人ひとりの中に、道端も、石だらけの場所も、茨もあるけれども、良い土地に変わることだってあるんです。

イエス様の言葉が撒かれる、私たち一人ひとりの心には変化があります。私たちの誰もが、百倍、六十倍、三十倍の実を実らせる可能性を持っています。

イエス様の教えを聞く耳を持つために、私たちの日々の営み中にある神秘に目を向けてください。

夜空に広がる銀河も、人体の設計図であるゲノムも、私たちのすべての経験を支えている脳も、神秘に満ちています。神様が造られ、私たちが生かされている世界の中に、神様の働きを見てください。

そして、イエス様の教えを通して、私たちの生き方が、豊かな実を実らせるものへと、日々変えられてゆきますように。