聖霊降臨後第11主日 説教

8月13日(日)聖霊降臨後第11主日(A 年)

ヨナ 2:2-10; ローマ 9:1-5; マタイ 14:22-33

私の夏休みの最終日、8日の火曜日に、高校時代からの友人が二人、私たち夫婦を訪ねてきました。この二人の友人は姉妹で、教会で青年時代を共に過ごした仲間です。

教会で出会ってから30年以上の時が過ぎた今も、友だちであり続けることができていることは、祝福であり、喜びであり、感謝なことです。

けれども、共に集まった4人が、それぞれの人生を振り返りながら語り合い、心の底から感じたことは、「私たちの人生は嵐の中にある」ということでした。

非常に保守的な、いわゆる「福音派」の教会で育った私たちは、いちいち口に出して言いはしなくとも、自分たちは「正しい福音」を知り、「正しい信仰」を持っていると思っていました。

「正しい福音」を知って、「正しい信仰」に導かれた私たちは、罪の力から自由になって、イエス・キリストの弟子として、「正しく」生きていくことができる。そう思っていました。そして、罪の力から解放されて、「正しく」生きるクリスチャンである私たちの上に、神様は祝福を注いでくださるんだ。そう信じていました。

高校生の時に出会った私たち4人は、進学し、卒業し、そしてそれぞれがクリスチャンの相手を見つけて結婚しました。

「正しい福音」を知って、「正しい信仰」を持っていれば、どんなことが起きても正しい判断をし、正しく対処することができるはずだ。だから結婚生活も、自分たちが築く家庭も、うまくいくはずだ。能天気なことに、そう思っていたんです。

しかし私たちを待っていたのは、予想もしない、大きな嵐でした。若い時に思い描いたような理想的な夫婦になった者も、夢に描いたような家庭を作れた者も、私たち4人の中にはいませんでした。

今朝の福音書朗読には、イエスが「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」たと語られています。

聖書学者たちの多くは、福音書の中に登場する「舟」は、福音書の背後にある教会、つまり福音書を書いた人たちが属していた教会の現実を表すシンボルだと考えています。

舟に打ちつける激しい波や、進路を遮る逆風は、同胞のユダヤ人から拒絶され、ローマ帝国でも、ユダヤ人社会でも迫害に直面する教会の現実と重ねられています。

旧約聖書の中では、膨大な量の水は常に、死の力や、秩序を破壊するカオスの力と結び付けられています。海、波、大雨、嵐、そして洪水。これらは神が造られた世界の秩序を破壊し、命を奪うものであり、恐怖の対象です。

創世記1章の天地創造の物語では、カオスを象徴する巨大な水の塊を、神が上と下とに分け、混沌の中に秩序を与えることによって世界が造られてゆきます。

創世記1章6節と7節にはこうあります。「神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。」

神が分けたこの水は、創世記1章2節に「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とある、深淵のことです。この深淵は、巨大な水の塊です。巨大な水の塊である深淵を、神が上と下とに分けると、そこに大空、天蓋が出現します。

そして天蓋の上の水と、地下の水、そして天のドームの下で一つに集められた水の塊である海を、神が治めておられる。イスラエルの人たちはそのように考えていました。

同じく創世記に出てくる有名なノアの方舟の物語では、神が上と下とに分けて治めた水が、再び暴れ出します。

7章11節にはこうあります。「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、その日、大いなる深淵の源がすべて裂け、天の窓が開かれた。」

ノアの方舟の物語の大洪水は、創世記1章の天地創造の物語のいわば巻き戻しです。神の力によって混沌の中に生まれた世界の秩序が、再び暴れ出した水の力、カオスの力によって破壊され、元の混沌へと戻ってしまうのです。

今朝の福音書朗読の中には、イエス様が舟の中に乗り込むと、「風は静まった」と書かれています。

マタイ福音書の著者はここで、巨大な水の塊、深淵を上と下とに分けて世界を創造された神の力が、嵐を沈める神の力が、ナザレのイエスを通して働いていると言っているわけです。

しかし、私たちは皆こう思うことでしょう。「いやいや、神様、嵐をしずめるんじゃなくて、むしろ最初から、嵐を起こさないでください。私たちが嵐にあわなくても済むようにしてください」と。

残念ながら、私たちが生きているこの世界は、完成された世界ではありません。天地創造の業は今も続いており、度々、大きな嵐が押し寄せます。

この世界は、第二次世界大戦から1世紀も経たぬうちに、再び戦争の危機に、しかも核戦争の危機に直面しています。

神が造られた世界のリズムを無視した経済活動が生態系を破壊し、そして気候変動が人類の生存を危機に晒すほどのレベルに達している、そんな世界に私たちは生きています。

そして命を脅かし、秩序を破壊する嵐は、私たち一人ひとりの人生にとっても、避けることも、否定することもできない現実の力です。

では、嵐を避けることのできない世界で生きる私たちは、嵐が人生の現実である私たちは、人として、喜びを持って、平和を作る者として生きるために、何を必要としているのでしょうか。

それは、今日の福音書に描かれた、ペトロの経験でしょう。ペトロは漁師でした。ガリラヤ湖のことをよく知っていました。何度もガリラヤ湖の嵐を経験しているはずです。ですから、嵐の中でも舟を沈ませない自信もあったはずです。

しかしそのペトロが、漁師としての自分の知識も、スキルも、経験も、まったく役に立たないような嵐に見舞われました。その嵐の中に、イエスはおられたのです。

ペトロは沈みそうになる舟から降りて、イエスがおられる荒れ狂う海へと踏み出しますが、当然のことながら、波に飲まれ、沈み始めます。まさにその時に、イエスは沈んでゆくペテロの手を取り、彼を引き上げました。

嵐の中で沈みゆくところをイエスに引き上げれらる、その出来事が、舟の中にいる人々を、イエスの弟子たちを、「まことに、あなたは神の子です」という信仰の告白へと導きました。

きっと本当の「信仰告白」は、信仰生活の初めに理解するべきものでも、理解できるものでもないのでしょう。

それはむしろ、自分の学んできたことが、自分のスキルが、自分の経験が、何一つ役に立たない、嵐の中で沈みゆくような状況の中で、イエスに引き上げられたときに、初めて生まれるものなのでしょう。

高校時代に教会で出会い、夏休みの最後の日に集まった二人の友人たちと私たち夫婦も、自分の知識も、スキルも、経験も、正しいと思っていた自分たちの信仰も、何の助けにもならない嵐の中に沈みました。

しかし私たち4人は今、嵐の中に沈んだ私たちのもとにやって来て、引き上げようとしてくださっているイエスの姿を、押し寄せる波の間から垣間見ながら、再びキリストに出逢い直している。そんな気がしています。

私たちが生きる世界も、私たちの人生も、嵐を避けることはできません。ナザレのイエスの人生も、彼の宣教の働きも、常に「嵐の中」にあり、嵐の中で命を失いました。

しかし世界を破壊し、命を奪い、すべてを混沌に帰してしまう嵐を収める神の力が、十字架の上で死に、墓に葬られたイエスの上に働きました。

こうしてナザレのイエスは、死を超える命の、復活の命の初穂とされました。

私たちが主と呼ぶイエス・キリストは、嵐の中を生き、嵐の中で命を落とした方です。しかし巨大な嵐の中に沈んでしまったと思われたイエスを、混沌の力を打ち破って世界を創造された神が、復活の命へと引き上げました。

だから私たちは、嵐を避けることができない世界に生き、時には荒れ狂う波の中に沈むことがあったとしても、イエスの弟子として、希望をもって生きることができるのです。

願わくは、沈みゆくペトロを引き上げた主が、人生の嵐に翻弄される私たち一人一人をも引き上げてくださいますように。