聖霊降臨後第13主日 説教

8月27日 聖霊降臨後第13主日(A年)

イザヤ書 51:1-6; ローマ 11:33-36; マタイ 16:13-20

私たちが、「ナザレのイエスは主です」と告白するグループのメンバーとして存在している、実はこの単純な事実は、歴史家たちにとってはもっとも説明不能な現象です。

なぜなら、イスラエルの歴史の中に生まれた様々なメシア運動は、指導者の死と共に、すべて消滅しているからです。

ところが、どういうわけか、ナザレのイエスが始めた神の国の運動は消滅しませんでした。いや、消滅しないどころか、指導者がいなくなった後に、急速に拡大したのです。

歴史家たちは、神の国運動の指導者であったナザレのイエスが、紀元後の30年に十字架にかけて殺されたことは知っています。しかし、その後に何が起こったのかは、歴史学的にはほとんど何もわかりません。

歴史家たちが知っているのは、ナザレのイエスが十字架の上で処刑された直後に、「十字架にかけられ、死んで葬られたイエスは復活した」と語る人たちが現れたということです。

復活のキリストが弟子たちに現れるという出来事そのものは、40日ほどで終わりました。けれども、イエス・キリストと結びついた運動は、その後、爆発的な勢いで世界に広がってゆきました。

しかし、「キリスト教」が爆発的に広がったという話をするとき、注意すべき大切なポイントがあります。それは、「キリスト教」は、大きな多様性をもった運動だったということです。

すべてのグループが、同じことをしていたわけではありません。すべてのグループが、同じ歌を歌っていたわけではありません。すべてのグループが、同じテキストを読んでいたわけではありません。すべてのグループが、イエス・キリストについて、同じ物語を語っていたわけでもありません。

イエス・キリストと結びついた運動が、聖霊の息吹きによって爆発的な勢いで世界に広がったとき、1つのキリスト教ではなく、多くのキリスト教があったんです。

最初に「一致」があったのではありません。最初にあったのは「多様性」でした。「一致」の要求は、後から、ゆっくりとやって来ました。

しかし、それは着実に、多様性を奪い、画一化を押し付ける方向へと進んでいきました。

今朝の福音書朗読の後半部分、マタイ16章の17節から19節は、教会の歴史の中で、最も多くの論争を呼び起こした箇所の一つです。

「この箇所の解釈をめぐって、教会が延々と論争を繰り広げて来た。」その事実そのものが、私たちは簡単にイエス様のことを忘れてしまうという証でもあります。

イエス様は、「あなたたちの中で一番偉くなりたい者、最有力者になりたい人は、すべての人の奴隷になれ」、そう言われました。ところが、マタイ16章の17節から19節を巡る論争は常に、教会内での勢力争いや権力闘争と結びついていました。

そもそも、17節から19節は、絶対にイエス様が言うことのできない言葉です。イエス様が話していたのはアラマイ語です。しかし、18節の「あなたは Πέτρος 。私はこの πέτρα の上に、私の教会を立てよう」という文は、ギリシア語の言葉遊びです。

しかも、ナザレのイエスは神の国の到来を告げ知らせたのであって、「教会」について何も語っていません。

神の国を宣べ伝えたナザレのイエスは、自分の語るメッセージによって、人々を、血縁によらない神の家族として、神の国の民として集めようとしました。

けれども彼は、「私の民」を集めようとは言いませんでした。ましてや、イエス様が「私の教会」を立てようい言うことなどありえませんでした。

さらに、今日の福音書朗読の物語もマルコ福音書がもとになっていますが、17節と18節にあたる部分は、もとのマルコ福音書にも、共観福音書のルカ福音書にも、ヨハネ福音書にもありません。

19節の、「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる」、

これに近い箇所は、ヨハネ福音書の20章にもあります。そこにはこうあります。

「23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」ここでは、結び、解く権威は、ペトロだけではなくて、弟子たち全員に与えられています。

これらのことから言えるのは、マタイ16章17節から19節は、イエス様が語った言葉ではなくて、マタイ福音書の著者による創作だということです。

マタイ福音書が書かれたのは1世紀の後半、恐らく紀元後の90年頃です。そのときには、ペトロを含め、ほぼすべての使徒たちが世を去っています。

この頃にはすでに、「使徒たちの教え」を掲げて「正しさ」を主張するグループが、「主流派」を構成するという傾向が進んでいました。

しかし、「使徒たちが教会の柱だ」と主張し、「使徒たちの教え」を掲げて自分たちの正しさを主張したとしても、そもそも「たった一つの正しい使徒たちの教え」などというものは存在しませんでした。

すでに触れたように、キリスト教は正統教義の布告によって拡大したわけではなく、大きな多様性を持つ運動として、聖霊の息吹によって広がったのです。

ところが、そこがまさに人間の弱さだということになるわけですが、イエス・キリストの運動として生まれたグループは、それぞれが、「自分の正しさ」を主張するようになりました。

もちろん、信仰の歩みの中で、真理を求めることはとても大切です。しかし、真理を求めることと、自分の正しさを主張することは、似て非なることです。

人間は、本当に弱くて、真理の探究と自己正当化を、簡単に混同してしまいます。そして、自分たちが絶対に正しいと思うようになった集団は、真理を探究することを止めます。その結果、自閉して、カルトになるのです。

ちなみに、「カルト化」というのは、宗教団体の中でのみ起こることではありません。

実際、日本はカルト集団に溢れています。多くの会社がカルト集団です。多くの学校がカルト集団です。そして、もっとも危険なカルト集団は、この国そのものです。

カルト集団化したグループは、陰謀論に支配されます。自分たちの主張に反対する者は皆、悪魔の側にいると思うようになります。

そして、神の側にいる自分たちは、悪者を暴力によって滅ぼしてもかまわないと考えるようになります。実際に、教会の歴史の中で、正統的教会、あるいはカトリック的教会は、これを実行に移してきました。

非常に残念なことですが、「正統的キリスト教」は「自分たちは正しいけれども、あいつらは間違っている」、そう互いに言い合って対立し、自分たちと理解の異なるグループとは縁を切るということを通して生まれました。

昨年、学校のチャプレンを務めるようになってしばらくたった頃に、小学校の教頭先生から、教員会の前に短く聖書の話をしてほしいと頼まれました。

ロシアがウクライナへの軍事侵攻を始めて間もないとき、教員会で聖書のお話をしたときに、ある先生から、こんな質問が出ました。

「キリスト教の教えと絶対に相容れないはずなのに、なぜロシアの教会は、プーチン大統領の戦争を支持しているんですか」。

私の答えは、「残念ながら、ロシアの教会がやっていることは、正戦論というキリスト教の強固な伝統に基づいていることなんです」というものでした。正戦論は、教会が神の名によって暴力を正当化するプロセスの頂点として生まれたものです。

今朝、福音書朗読で読んだ箇所は、教会による自己正当化の頂点とも言える内容です。

私たちは、「正しさ」を主張する聖書の箇所に出会う度に、警戒心を発動する必要があります。そして、イエス・キリストは、自分の正しさを疑わない人たちと激しく対立し、「罪人」として忌み嫌われる者たちの友として生きられたことを思い起こすべきです。

聖霊の息吹を受けて、私たちが「正しさ」を求める誘惑から解放され、命を慈しみ、喜ぶ神の国の民として生きる者とされますように。