聖霊降臨後第14主日 説教

9月3日(日)聖霊降臨後第14主日(A年)

エレミヤ 15:15-21; ローマ 12:1-8; マタイ 16:21-27

今朝の福音書朗読は、先週の福音書朗読の続きの箇所です。

「あなたがたは私を何者だと言うのか」、そうイエス様が問いかけると、ペトロは使徒たちを代表して、あるいは教会を代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」という模範解答で応えます。

するとイエス様が、「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と宣言する。それが先週の福音書朗読の内容でした。

ところが今日の福音書朗読では、「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と宣言されたそのペトロが、「サタン」としてイエス様に退けられます。

イエス様の時代、サタンはあらゆる悪の背後にいる、悪のボスキャラ的存在でした。ですから、初めて聖書を読んだ人が、「教会が立てられた岩はサタンだったんだから、教会は悪の組織なんだ!」と思ったとしても、無理もないということになります。

もちろん、マタイ福音書の著者は、「教会は悪の組織です」と言うために、今朝の福音書朗読の部分を書いたわけではありません。

しかし、福音書の物語の流れは、私たちが「自然に」、「すんなりと」理解できるような流れにはなっていません。いや、むしろ、ほとんどの場合、福音書の物語の展開は不自然で、物語としてうまく流れないと言った方が正確かもしれません。

私はかれこれ35年以上聖書を読んできましたが、いまだに「聖書がよく分かる」などとは、口が裂けても言えません。けれども、聖書に収録されている様々な本を読んで、理解しようとするときに、押さえておかなくてはならないポイントがあるということは、少しずつわかってきました。

福音書という書物を読むときには、物語の流れと、実際の出来事の流れは正反対だということを意識している必要があります。それは、福音書の登場人物としてのイエス様が知っていることを、歴史上のイエス様は知らなかったということでもあります。

新約聖書の中には福音書と呼ばれる書物が4つ収められていますが、どの福音書の著者も、何が起きたのか、すべてわかった上で、イエス・キリストについての物語を書いています。

福音書の著者たちは皆、イエス様が神殿当局者によって捕らえられ、十字架にかけられて殺され、墓に葬られたことを知っています。もちろん、復活のキリスト・イエスが、ほぼ40日に渡って弟子たちの前に現れたことも知っています。

その結果として、教会という集団は生まれたわけです。そして、福音書を書いている人たちは皆、「イエスはメシアです」と告白するこの集団のメンバーとして、福音書を書いているわけです。

ところが、歴史上の弟子たちも、イエス様自身も、イエス様が進めている神の国運動がどんな帰結を迎えるのか、知ってはいませんでした。

今朝の福音書朗読は、イエス様が自分の死を予告したのに、ペトロはイエス様の業も言葉も理解できずに、神の御心に逆らった。だからイエス様に退けられたんだ、という話になっています。

しかし歴史上のイエス様は、自分が推し進めている神の国運動が、自らの死で終わるなどとは思っていませんでした。

もちろんイエス様は、神殿を中心としたイスラエル社会で影響力を持っている人々が、自分のことをよく思っていないことを知っていました。イエス様の存在を疎ましく思い、彼のことを亡きものにしたいと思う人々がいることもわかっていたはずです。

それでもイエス様は、自分が命を落とすことになるとは思っていませんでした。たとえ自分を抹殺しようという計画が動き出したとしても、最後の最後には、神ご自身が介入して、自分を死から救ってくださると思っていたはずです。

そうでなければ、イエス様が十字架の上で息を引き取るときに「我が神、我が神、どうして私を見捨てたんですか!」と絶望の叫びを上げることも無かったでしょう。

イエス様は何度も死の予告をしたのに、重い記憶障害があって、自分の言ったことを覚えていられなかった。だから十字架の上で、「なぜ自分を見捨てたんだ」と叫んだのでしょうか?もちろん、そうではありません。

むしろここにも、福音書の物語の流れと、実際の出来事の流れは反対であることが表れているのです。福音書の登場人物としてのイエス様が知っていることを、歴史上のイエス様は知らなかったのです。

福音書に書かれていることは、著者が所属している教会の中で語られていたことです。福音書の著者は、常に、自分が属する教会の立場を代弁しています。

そして、福音書の著者は、教会の中で語られていることを補強するような言葉を、イエス様の口を通して語らせます。逆に、他の福音書に書かれていることであっても、言ってほしくないことは削除したりもするわけです。

今日の福音書朗読の中から私たちが考えるべきことは、本当にイエス様が自分の死を予告したかどうかではありません。

私たちが学ぶべきは、「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」というイエス様の言葉に現された真理です。

ペトロも含め、イエス様の弟子たちは皆、ローマの軍隊を蹴散らし、イスラエルを異教徒の支配から解放し、ダビデ・ソロモン時代の栄光を回復してくれる有能な軍事指導者である王を、メシアとして待ち望んでいました。

彼らが、そして私たちが待ち望む「救世主」は常に、力によって世界を支配し、敵を打ち滅ぼし、復讐を実現してくれる「英雄」なのです。

しかし、それは「命の道」ではなく、滅びの道です。支配者は、政治家は、いつもこう言います。「自分たちを守るために、敵にやられる前に、敵を滅ぼすんだ」と。

しかし、彼らの言葉を絶対に信じてはいけません。そのように語る人間を、政治家として選んではなりません。そういう人間を政治家として、統治者として選ぶことは、戦争の種を蒔くことであることを、私たちは知っているべきです。

ロシアのプーチン大統領はまさに、自分たちの命を守るために、敵に攻撃される前に、敵を滅ぼす必要があると言って、ウクライナへの軍事侵攻を開始しました。

彼が始めた戦争は、何十万というウクライナの人々と、そしてロシアの人々に、まったく必要のない苦しみと、まったく無意味な犠牲と、早すぎる死を課すことになりました。ロシアでは今、病気の治療が必要な50代の男性でさえ徴兵され、人の盾として殺されるためだけに最前線に送られています。

自分を守るために、敵に攻撃される前に、敵を滅ぼすべきだという「指導者」は、実は自国民の命にも関心はありません。彼らは自分の議席のために、特権のために、権力の座に居座るために、国民が死ぬことを要求します。

ロシアの現実は、対岸の火事ではありません。それは今、現在進行形で、この国でも進みつつあることです。

ますます多くの税金を取り立てて、それを軍事費倍増のためにあて、敵地攻撃能力を手に入れるといって、アメリカからポンコツ兵器を超高額で買い取る。その裏で、セーフティーネットを破壊し、多くの市民を貧困化させ、富裕層に富を再分配する。

それがこの国で、今、起きていることです。

プーチンの道も、日本政府の道も、命の道ではありません。どちらも死の道です。

では、命の道はどこにあるのか。それはイエス・キリストの内にあります。彼が語った神の国の民としての生き方の中に、命の道があります。

イエス様が教えた命の道は、互いに仕え合うことの中に、互いに命を与え合うことの中にあります。

イエス・キリストを死者の中から復活させられた神が、死の道から私たちを解放し、互いに仕え合い、互いに命を与え合うコミュニティーの中に、命を見出す者としてとしてくださいますように。