聖霊降臨後第18主日 説教

10月1日(日)聖霊降臨後第18主日(A年)

エゼ 18:1-4,25-32; フィリ 2:1-13; マタイ 21:28-32

マタイによる福音書21章28節から22章の14節までの間に、3つの例え話があります。今朝の福音書朗読は、その最初のものです。来週と再来週の日曜日には、残りの2つの物語が福音書朗読として読まれます。

ネタバレのようになってしまうかもしれませんが、今日の例え話と、それに続く後の2つの例え話を通して、著者が言おうとしていることは同じです。

マタイ福音書の著者は、自分たち、つまりマタイ福音書の教会こそが本当のイスラエル、忠実な神の民であり、イエス・キリストを受け入れなかった主流派のユダヤ人(祭司長たち、長老たち、サドカイ派、ファリサイ派の人々)を、神は見捨てたのだ、そう言っているのです。

今日の福音書朗読の箇所は、著者の意図は明確なんですが、解釈が異常に難しいテキストです。

まず、物語の前半部分にあたる28節から30節を見てみると、協会共同訳では、ある「人」に二人の「息子」がいて、父親が「兄」と「弟」にぶどう園へ行って働くようにと命じたという話になっています。

ところが原文のギリシア語テキストを見ると、「息子」も、「兄」も「弟」も登場しません。日本語で「息子」と訳されているのはギリシア語の ‘τέκνα’ という言葉です。これは本来、英語の ‘children’ にあたる言葉です。もちろん、英語の ‘sons’ にあたる言葉はギリシア語にもあります。それは ‘υἱοὶ’ という言葉です。

28節から29節で「兄」、「弟」と訳されているのは、「第1」、「第2」、 ‘the first (one),’ ‘the second (one)’ を意味する言葉です (τῷ πρώτῳ, τῷ δευτέρῳ)。

この「第1」、「第2」というのが、話しかけた順番ではなくて、生まれた順番であると取るべきだと考える材料は、物語の中にありません。

ただし、31節の「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」という質問に対する答えは明確です。

父の意志を実現したのは、「嫌ですと言ったけれども、後で思い直して、ぶどう園に行って働いた「第一の者」であって、「行きます」と言ったのに行かなかった「第二の者」ではありません。

父の意志を実現した「第一の者」は「徴税人や娼婦たち」であり、「第二の者」は「あなたがた」です。この「あなたがた」は、直前の文脈に現れる祭司長たちと長老たちだけではなく、イエス様をメシアとして受け入れなかったすべてのユダヤ人を指しています。

ここまでを見れば、著者の意図は明確ですし、物語の解釈として難しいことはそれほどありません。

ところが、この話の結論にあたる32節が、物語全体の解釈を著しく困難にしてしまいます。

32節には、「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る」、その根拠が語られています。

一言で言えば、「徴税人や娼婦たち」は、バプテスマのヨハネを信じたので神の国に入れるけれども、主流派のユダヤ人は彼を信じなかったので神の国に入れないと言っているわけです。

これは奇妙な主張です。神の国に入れるか、入れないか、その基準が、なぜバプテスマのヨハネを受け入れるか、受け入れないかになるんでしょうか?

イエス様が、バプテスマのヨハネの始めた神の国の運動に加わるために洗礼を受け、彼の弟子となったということは、歴史的事実です。同じように、イエス様が、バプテスマのヨハネと袂を分かって、独自の神の国運動を始めたということも、紛れもない歴史的事実です。

イエス様がバプテスマのヨハネのもとを去ったのは、バプテスマのヨハネが語っている神の国は違うと思ったからです。

バプテスマのヨハネが語った神の国は、旧約聖書の預言書の中で繰り返し語られていた「主の日の」到来であり、最後の審判の時です。必要なことは、最後の審判の前に、これまでの生き方を捨てて、洗礼を受けて清められて、神の国に受け入れてもらえる準備を整えておくことです。

バプテスマのヨハネにとって、「清められる」ということは、神の掟である律法を守って生きるようになるということです。「主の日」の到来について語った旧約聖書の預言者たちと同じように、律法に対するバプテスマのヨハネの立場は、極めて保守的です。

バプテスマのヨハネは、「徴税人や娼婦たち」が「足を洗う」ならば、彼らを受け入れます。しかし、「徴税人や娼婦たち」を、そのまま受け入れることはありません。

もし「徴税人や娼婦たち」が洗礼を受け、これまでの仕事をやめ、「聖い」状態で最後の審判の日を迎えることができなかったなら、彼らの滅びは確定です。

汚れた者は神に受け入れられず、神に呪われる。神の掟を守ることによって自分を聖め、聖い者として神の前に立つことによって祝福を受ける。それがユダヤ教という生き方であり、神を恐れるすべてのユダヤ人と、バプテスマのヨハネが共有する価値でした。

しかし、イエス様はそれを受け入れませんでした。イエス様の神の国には、「善人」も「悪人」も、共に招待されてしまいます。彼が語る神の国は、「善人」と「悪人」が、一緒に祝宴の席について、そこに招かれた人々がみな食卓に仕える者となるときに到来します。

だからイエス様は、「徴税人や娼婦たち」の友として生きられたのです。

ここに躓きがあります。私たちは、「悪人」が滅ぼされて、「善人」だけが集まるパーティーに喜びを見出します。「善人」だけが招かれるパーティーこそ素晴らしいと私たちが思うのは、私たちはいつも、「自分が正しい」と思っているからです。

どんな「悪人」も、自分は「いい子」だ、自分はヒーローの側にいると思っています。そして自分が嫌いな人、自分が憎んでいる人は、自動的に「悪人」として括られます。

ですから、自分の嫌いな奴が、「悪人」が、同じパーティーの場にいたら、「なんであんな奴がここにいるんだ!」と思うんです。

私たちは誰も、「善人」も「悪人」も一緒に招待されるパーティーに魅力を感じません。だから私たちは、イエス様が語る神の国に躓きます。

私たちは皆、イエス様に躓きます。彼に躓かない人は誰もいません。むしろ、イエス様に躓くことが必要です。

なぜイエス様に躓く必要があるんでしょうか?それは、イエス様に躓かないと、私たちは自分の信念と自分の正義を振りかざして、暴力的になるからです。

自分の正しさを確信しているとき、人は自分の暴力性に気付きません。

皮肉なことに、「ユダヤ人」というアイデンティティーを巡って、主流派のユダヤ人と対立していたマタイ福音書の教会は、バプテスマのヨハネを引き合いに出すことで、イエス様が捨てたものを、教会の中に再び取り戻すことになりました。

敵対者と同じリングに立って、相手を打ち負かそうとすることによって、私たちは敵対者の行動を模倣します。

マタイ福音書の教会は、ユダヤ人クリスチャンを会堂から追い出した主流派ユダヤ人と同じリングに立った結果、「相手を神の国から追い出さなければいけない」と思うようになったのです。

主イエスが捨てたものを私たちも捨てて、神の国の民として旅を続けるために、敵対者と同じ土俵に立たず、逃げながら戦う道を、イエス様から学び続けましょう。