聖霊降臨後第22主日 説教

10月29日(日)聖霊降臨後第22主日

出エジプト 22:20-26; Iテサロニケ 2:1-8; マタイ 22:34-46

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」

これは旧約聖書の申命記6章5節とレビ記19章18節からの言葉です。

私たちが旧約聖書と読んでいるコレクションの最初の5つの書物は『トーラー』と呼ばれます。日本語では「律法」と訳されますが、イエス様の時代のユダヤ人たちは、これを「神の掟の書物」とみなしていました。

その中には様々な規定やルールが出てくるけれども、どれが一番大切な掟だと思うか。律法の専門家の一人が、そうイエス様に尋ねます。

それに対してイエス様は、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という申命記6章5節の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記19章18節の掟だと答えます。

このやりとりの中には、何一つ注目すべきことはありません。

トーラーに記された様々な掟の中で、どれが一番重要かという質問は標準的な質問です。この質問に対する、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟の2つですという答えも、極めて標準的な答えです。

 今朝、私たちは、この、なんてことはない、ごくありふれた質問と、それに対する、ごくありふれた答えの前で、しばらく立ち止まってみたいと思います。

私は今年の大斎節第1主日の礼拝後に行った大斎研修の中で、 ‘How not to Read the Bible” 「どう聖書を読んじゃいけないか」という話をしました。

その中で私は、「どんなことでも聖書を使って正当化できる」、「聖書に書いてあるから」と主張することは、何の根拠にもならないと言いました。

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟も、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟も、とても単純な内容に思えます。

ところが、この2つの掟の中には、とてつもなく重要な問題が、少なくとも2つ隠れています。

第1の問題は、「私たちが祈りを献げる神様というのは、一体どんな神様なのか?」という問題です。そして第2の問題は、「隣人」は誰かという問題です。

やっかいなことに「神様はどんな神様なのか」という問いに対しても、「隣人」とは誰なのかという問いに対しても、聖書というコレクションに収められている書物は、守備一貫した答えを与えてはくれません。

聖書というのは多声的コレクションです。そこに収められている書物には、様々な立場の声が響いています。

イスラエルの敵を皆殺しにするようにと叫ぶ声、寄留者を守れ、神の慈しみは、イスラエルを滅ぼした敵にすら注がれると語る声。

遊女を石打にしろと叫ぶ掟の書の声、遊女を通して神の御心がなされたんだと語る小さな声。

モーセの権威を唱える絶対的な響きをもった声と、神の前に最も正しい人はユダヤ人ではなかったと告げる声。多くの声が聞こえます。

どの声が「より忠実な」神の声なのか、誰が私の「隣人」となるべきなのか、様々な声の中から、私たちがどの声を聞くべきか、聖書は教えることができないんです。

かつてイングランドからアメリカ大陸に渡った人々の多くは、エジプトの地からモーセによって導き出されたイスラエルの民と、自分たちを重ねて見ていました。

そしてカナンの地が約束の地としてイスラエルの民に与えられたように、アメリカ大陸を自分たちに与えられた土地とみなしました。

神がイスラエルの民に、カナン人を滅ぼしてその土地を自分たちのものにするようにと命じたように、土着のアメリカ人 (native Americans) を滅ぼしてアメリカ大陸を支配することは、神が自分たちに与えた使命 (mission) なのだ。彼らはそう信じていました。

大英帝国とアングリカンの福音派的聖書解釈が生み出したシオニズム国家イスラエルも、パレスティナの人たちに対して同じことを行っています。

1948年の建国宣言以来、シオニストたちはパレスティナの人々の家を破壊し、土地を奪い、そこにユダヤ人を入植させる植民地主義を、聖書の言葉(特に創世記12章3節)を使って正当化し続けています。

大英帝国を通してシオニスト国家イスラエルを生み出した聖書解釈の影響は、今も続いています。

パレスティナの土地がユダヤ人に与えられたと信じる福音派のアメリカ人クリスチャンは、ユダヤ系アメリカ人の2倍もいます。福音派のクリスチャンたちは、シオニスト国家の支持団体を立ち上げ、多額の献金を集め、占領地域へユダヤ人を入植させる活動を後押ししています。

シオニスト国家によるパレスティナの植民地化を、神の御心と信じる福音派のクリスチャンたちの目には、家を奪われ、土地を奪われ、日々、イスラエルからの迫害に直面しているパレスティナ人の苦難も犠牲も見えません。彼らの多くは、パレスティナ人の中に、多くのクリスチャンがいることすら知りません。

アメリカ合衆国を生み出したキリスト教の神と、パレスティナにシオニスト国家を生み出したキリスト教の神は、支配者と共にいる神であり、敵と見做された人々の滅びを喜ぶ神です。

この神の愛と憐れみは、アフリカから拉致されてきた人々や土着のアメリカ人の前で立ち止まり、彼らのところには届きません。彼らは滅びるべき存在だからです。

シオニスト国家を支えるクリスチャンの神の愛と慈しみも、パレスティナ人の前で立ち止まり、彼らのところには届きません。彼らもまた滅びるべき存在だからです。

しかし、すべてのユダヤ人が、シオニズムを支持しているわけではありません。

興味深いことに、シオニズムが民族浄化とアパルトヘイトと植民地主義のエンジンであることに気づいて、シオニズムに背を向けるユダヤ人が増え続けています。

先週、アメリカでは、ガザでの停戦を求める、何千人ものユダヤ人が、New York の central station を埋め尽くしました。

‘Never Again For Anyone’ 「ホロコーストのような虐殺が、誰にも、どの民族に対しても起こらないように」、‘Palestinians Should Be Free’ 「パレスティナの人々に解放を」、‘Not In Our Name’ 「我々の名を使うな!」Central stationに集まったユダヤ人たちは、そう声を上げました。

もちろん、今でも、パレスティナは神がユダヤ人に与えた土地だと主張し、パレスティナの人々を殺し、土地を奪い、家を破壊し、ユダヤ人を入植させて占領を既成事実化するシオニズムの声も聞こえます。両手を上げてこれを支持するクリスチャン・シオニストの声も聞こえます。

しかし、パレスティナ人とユダヤ人双方の解放を願うユダヤ人の声も聞こえます。シオニスト国家の終焉を求める、超正統派ユダヤ教のラビたちの声が聞こえます。

どの声の中に、私たちはナザレのイエスを通して語られた神の声を聞くでしょうか?

どの声の中に、私たちはイエスの霊を、聖霊の働きを感じるでしょうか?どの声の中に、私たちの隣人を見出すでしょうか。

今日は、問いかけをもって、閉じさせていただきます。

 私たちはどの声の中に、誰の声の中に、イエス・キリストの声のこだまを聞き取るでしょうか?