聖霊降臨後第23主日 説教

11月5日(日)聖霊降臨後第23主日(A年)

ミカ 3:5-12; Iテサロニケ 2:9-13,17-20; マタイ 23:1-12

今朝の福音書朗読箇所は、紀元後70年のエルサレム神殿崩壊後のユダヤ人コミュニティーの現実を反映しています。

イエス様が弟子たちを作り、神の国の福音を宣べ伝えていたとき、ユダヤ人社会の中心はエルサレムでした。

エルサレムがユダヤ人社会の中心であったのは、そこに神殿があったからです。エルサレムの神殿こそが、ユダヤ教という宗教の中心であり、イスラエル社会の政治と経済の中心でした。

宗教的指導者であれ、政治的指導者であれ、経済的指導者であれ、「指導者」と呼ばれる人たちの力、あるいは影響力は、すべて神殿を源泉としていました。

しかし、紀元後の70年に、エルサレム神殿はローマ軍によって完全に破壊されます。エルサレムの神殿が崩壊したということは、イスラエルという社会そのものが崩壊したことを意味します。

その結果、イエス様の時代に力を持っていた多くの人たちが、神殿崩壊と同時に力を失いました。神殿での祭儀を司っていた祭司たちはいなくなり、神殿と結びついた貴族階級であったサドカイ派もいなくなりました。

紀元後70年のエルサレム陥落後に、神殿崩壊以前から存在するユダヤ人グループとして残ったのが、ファリサイ派とナザレ派、つまりクリスチャンでした。

マタイ福音書が書かれたのは紀元後80年以降ですが、そのときにはすでに、ファリサイ派の人々が新しいユダヤ教の指導者としての地位を確立していました。

ファリサイ派の人々は、神殿祭儀を中心としたユダヤ教に代わって、律法の遵守を中心とする新しいユダヤ教、立法主義ユダヤ教を確立しました。

福音書を読んでいると、律法主義というのはユダヤ教の古い伝統であるかのような印象を受けます。

しかし律法主義というのは、神殿崩壊後に生まれた、新しいユダヤ教の伝統です。それを生み出したのがファリサイ派の人々であり、その指導者たちは「ラビ」と呼ばれました。

2節の、「「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている」という言葉はまさに、新しいユダヤ教の中で、ファリサイ派の律法学者が権威の座についている状況を表しています。

ここには、新しいユダヤ教の指導者となったファリサイ派と、福音書の著者が所属している教会との対立が投映されて、イエス様とファリサイ派の人々との対立として描かれているわけです。

「あなたがたは『先生』(ラビ)と呼ばれてはならない」という命令は、端的に言えば、「あいつらがやっているようなことは、オレたちはしない!」という対抗意識から生まれた命令です。

イエス様は確かに、神の国に反対する者たちを痛烈に批判しました。

「彼らは、背負いきれない重荷をくくって、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない。5 そのすることは、すべて人に見せるためである」という言葉は、イエス様が語った言葉です。

しかし、ここで私たちが注意するべきことは、福音書の中では、イエス様がファリサイ派の人たちを全部ひとまとめにして拒絶しているように語られているけれども、実際はそうじゃないということです。

すべてのファリサイ派の人たちがイエス様を拒否したわけではありません。イエス様を食事に招いたファリサイ派もいます。イエス様の弟子になったファリサイ派もいます。

教会のメンバーになったファリサイ派もいます。有名なニコデモもファリサイ派の人です。

歴史の中で、ファリサイ派とクリスチャンとは異なる道を進み、異なる宗教となりました。しかしガザを舞台に展開されている、イスラエルによるパレスティナ人の殺戮という剥き出しの悪に対する対応を見ていると、キリスト教徒よりも、むしろラビ・ユダヤ教の方が、イエス様の教えに忠実なのではないかと思わされます。

イスラエルによるパレスティナ人の殺戮を、西洋のかつてのキリスト教世界が支え、アメリカのクリスチャンたちが支えています。

アメリカと西洋諸国の政府は、ガザで行われている虐殺行為の積極的サポーターであり、西洋のキリスト教国という幻想は、今、私たちの目の前で、完全に崩れ去りました。

そんな中、世界中の国々で、何千人ものユダヤ人が立ち上がり、イスラエル国家に反対し、パレスティナの人々との連帯を表明し、連日、警察や治安部隊によって捕らえられています。

さらに驚くべきことに、イスラエルの暴力に対する最も徹底的な批判の声が、超正統派のラビたちから、律法主義ユダヤ教の指導者たちから上がっています。

世界中から何千人ものラビたちが集まった会議の中で、一人のラビはこう訴えました。

ユダヤ人は国籍も、国民国家も持ってはいません。共通の土地や文化の故に存在する他のすべての民族とは異なり、ユダヤ人はただ共通の宗教を受け入れたが故に、シナイ山で神からの律法を受け入れたというただそのために存在しています。

私たちは、私たちの祖国、律法の境界線の中で繁栄し、その外では死にます。。。

シオニストはユダヤ教を無効にし、ユダヤ教を、宗教を、民族主義と置き換えることを望みました。こうして彼らは国家を手に入れ、これをユダヤ人の国民国家と呼びました。

しかしユダヤ人に国家はありません!シオニストたちは国家としての地位を作り出しはしましたが、それはユダヤ人をユダヤ人たらしめるものとも、ユダヤ教とも、何の関わりもありません。

シオニストたちは自分たちをイスラエルと呼ぶのを止めるべきです。自分たちをユダヤ人国家と呼ぶことを止めるべきです。

なぜなら、それらはすべて嘘だからです。彼らが自分たちを何と呼ぼうとかまいません。しかし、彼らはイスラエルではないしユダヤ人国家でもありません。

私たちクリスチャンは、イエス・キリストの福音の中で繁栄し、その外では死に絶えるはずの存在ではないのでしょうか?

それなのに、なぜ、キリスト教の指導者たちは、ローマ帝国の中で、世俗権力の中で、教会が繁栄するかのような幻想に囚われたのでしょうか?

イエス・キリストの福音の中心には、神の国があるではありませんか。神の国は、死んだ後に魂が行く「天国」ではありません。

イエス様が語った神の国の命は、この世にあって始まるものです。それはこの世での命を喜び、楽しむところから始まります。イエス様の生き方に、禁欲主義的なところなどありません。イエス様はパーティー大好き人間でした。

神の国は、生きていることの喜びが満ち溢れるところです。命が咲き誇るところです。

しかしイエス様は、自分の豊かさのために、自分の暮らし向きのために、人々を犠牲にしている支配者や指導者に対して怒り、激しい批判を浴びせました。

それは、神の国を否定する生き方だからです。神の国を否定する生き方は、命を否定する生き方です。

まだ死ぬべきでない人たちを殺し、墓に葬るべきでない人たちを墓に葬らせる闇の力は、神の国に敵対する力です。イエス・キリストを十字架につけた力です。

イスラエルの虐殺行為を支持するアメリカ政府にも、イギリス政府にも、ドイツ政府にも、フランス政府にも、神の国と共鳴する要素は何一つありません。

けれども、アメリカにも、イギリスにも、フランスにも、ドイツにも、イスラエルの虐殺行為に反対して立ち上がる人々がいます。ユダヤ人でありながら、イスラエル政府を徹底的に批判する人たちがいます。

その人たちの内にこそ、神の国の価値と共鳴する、将来の和解の可能性が、希望の種があります。

私たちの宗教も、キリスト教も、偽りから自由ではありません。聖書も、教会の伝統も、教義も、偽りを免れてはいません。

だからこそ今朝も、イエス・キリストの霊が、命を滅ぼす闇の力から私たちを解放し、命の喜びが満ち溢れる神の国のコミュニティーとしてくださるよう、神に祈り求めましょう。