聖霊降臨後第24主日 説教

11月12日(日)聖霊降臨後第24主日(A年)

アモス 5:18-24; Iテサロニケ 4:13-18; マタイ 25:1-13

マタイ福音書の25章には3つのたとえ話があります。今週が1つ目の「十人のおとめ」のたとえ、来週は2つ目の「タラントン」のたとえ、再来週は3つ目の「羊と山羊」のたとえ話が読まれます。

3週間に渡って読まれる3つのたとえ話はすべて同じテーマについて語っています。それは ‘παρουσία’ と呼ばれるものです。

この ‘παρουσία’ というギリシア語は、誰かがやってくること、何かが到来することを表す普通の言葉です。ところがキリスト教の歴史の中で、この言葉は特別な意味をもった専門用語になりました。

使徒たちの時代から、教会は、「神の国が完成されるとき、イエス・キリストが再び帰って来る」と信じていました。そして ‘παρουσία’ という言葉は、「キリストが再び来られる」という教会の信仰を表す専門用語として定着しました。

今日から3週間に渡って読まれるたとえ話はすべて、キリストが再び帰ってくることに関するお話です。

今日の話の「花婿」はイエス・キリストを表しています。「祝宴の間」は神の国で、「10人のおとめ」は二種類の教会のメンバーです。

マタイがこの話を通して言おうとしていることは単純です。キリストが再び帰って来たとき、彼を迎える準備をしていなかった者は神の国に入れない。だから気を引き締めて、キリストが帰ってきたらすぐにお迎えして、神の国に入れてもらえる者になりなさい。そう言っているのです。

話は単純ですが、問題は、マタイ福音書25章の物語がどれも、イエス様の意図と合わないということです。

今日の賢いおとめと愚かなおとめの物語も、イエス様が語った神の国と相いれません。

イエス様の神の国はむしろ、この世の「賢い者」たちによって退けられ、「こども」のような愚かな者たちに受け入れられました。その結果、この世の賢い者は入らず、こどもたちは神の国に入ります。

イエス様の神の国は、「よそ者」として退けられていた者が招き入れられて、「よそ者」を排除する人たちが入れない、あるいは入ろうとしないものです。

ではなぜマタイは、イエス様の神の国と相いれないたとえ話を、彼の口を通して語らせているのでしょうか。

それは、すぐに帰ってくると思っていたイエス様が帰ってこなかったために、教会が動揺していたからです。イエス様の帰りが遅れている。それは教会を襲う大嵐でした。期待が裏切られて、教会を離れるクリスチャンも少なくなかったはずです。

新約聖書のすべての書物は、すぐに帰って来るはずのイエス様が帰って来ないという嵐を沈めて、教会を安定させるために書かれました。

マタイ福音書の25章の3つの物語も、動揺する信徒たちに喝を入れて、教会を安定化させるために書かれました。

しかし、嵐をしずめて教会を安定化させようとした人たちが、本当は問うべきだったのに、問わなかった、直視することを避け続けてきた大きな問題があります。

それは、「自分たちの認識が誤っていたかもしれない」と疑うということです。

新約聖書に含まれる書物を書いた人々も、その後の「正統教義」を生み出した神学者たちも、「キリストは私たちが期待したほど早くは帰ってこなかったけれども、そう遠く無いうちに帰って来る」と言い続けました。

見直しをされなかった再臨待望は歴史の中で度々、人々を妄想と狂気へと駆り立ててきました。

すでにお話してきたように、パレスティナにユダヤ人の国を作ればイエス・キリストが帰ってくるという妄想が、シオニスト国家イスラエルを生み出しました。

その結果として、パレスティナの人々は70年以上もの間、シオニストたちによって苦しめられ、今、虐殺の危機に晒されているのです。

そもそも、「キリストが帰ってくる」という期待は、「十字架の上で死んで墓に葬られたナザレのイエスが、弟子たちの前に現れた」という出来事の、一つの解釈に過ぎません。

復活の主が弟子たちの前に現れたという出来事は、遥か彼方の銀河の姿を写す望遠鏡のようなものです。

望遠鏡は、何十万光年も離れた銀河の存在を示してくれます。しかし、その銀河がどのような世界なのか、直接的に知る手立ては、私たちにはありません。

私たちにできることは、より解像度の高い望遠鏡を作り、さらなるデータを集めて分析し、データを解釈し、より良いモデルを生み出ことです。

劇的な変化を続ける世界に置かれた教会にとって、信仰のupdateは絶対必要不可欠なことです。教会は今まで以上に、Teilhard de Chardinのような神学者を必要としています。

1881年生まれのフランス人イエズス会士Pierre Teilhard de Chardinは、神の天地創造の業と宇宙の進化とを結びつけることによって、イエス・キリストの復活と「再臨」を解釈しなおし、信仰をupdateしようとしました。

彼は宇宙の進化のプロセスを通して、物質は精神、魂へと向かい、魂が人格を獲得し、ついに人格が宇宙的キリストにおいて究極の人格にいたると考えました。

もちろんTeilhard de Chardinの神学が完全に正しいわけでも、イエス・キリストという神秘を完全に解き明かしたわけではありません。

しかし、神がすべての真理の源だと信じた彼は、科学を通して明らかになった世界の真理と向き合い、私たちの信仰を更新し、イエス・キリストという神秘を解明しようと努めました。

その努力を怠る時、私たちの信仰は化石化して死ぬか、あるいは狂気を生み出す妄想に堕落します。

逆に、科学を通して明らかになる世界の真理と向き合うとき、私たちの信仰は豊かにされます。進化する宇宙に目を向けるとき、神はダイナミックな神であり、「神の御心」は決定論ではないことに気付かされます。

神様は、最初からイエス様を十字架にかけて死なせようとしていたわけではありません。イエス様は死ぬために生まれたのでもなければ、殺されることを目指して神の国の福音を宣べ伝えたのでもありません。

イエス様は、イスラエル社会の指導者たちに受け入れられなかった結果として、十字架にかけられて死ぬことになりました。

イエス様は、神は命を与えて育む方であって、命を破壊することを喜ばれないと信じていました。そのために、イエス様は敵を殺すことを放棄して、死を受け入れました。

その時点で、イエス様は、父なる神がご自分を復活させるとは知りませんでした。しかし神は、十字架の上で死に、墓に葬られたイエス様を死から甦らせ、弟子たちの前に現わされました。

イエス様は、ご自分がどんなメシアになるのか知りませんでした。しかし神の呼びかけと、イエス様の応答とが絡み合い、神の御心となり、ナザレのイエスは復活の命と天地創造の業の到達点を指し示すメシアとされました。

私たちは、イエス様が始められた神の国プロジェクトを現代に引き継ぐ者たちです。

驚くべきことに、私たちが神に祈り、イエス・キリストに帰り、彼の言葉と生き方から学びながら、自由に、喜びをもって生きる時、私たちは天地創造の業の協力者とされ、そこに神の国が現れます。

私たちはしばしば、「自分は世界を変えることはできない」と言います。しかし現実はまったくの正反対です。

私たち毎日、世界を変え続けているのです。ただ私たちには、自分の意図が、自分の決断が、自分の行動が、どのように世界を変えているのかが見えていないだけです。

神の呼びかけに対する私たちの応答は、世界の進路を変えます。

真理の源である神が、あらゆる真理を通して私たちの信仰を新たにし、天地創造の業を完成へと導くために、ふさわしく世界を変える者としてくださいますように。