聖霊降臨後第25主日 説教

11月19日(日)特定28主日

ゼファ1:7,12-18; Iテサ 5:1-10; マタイ 25:14-29

先週の説教の中で触れましたが、マタイ福音書の25章には、イエス様の口を通して語られる3つの例え話しがあります。そして、マタイ福音書の著者は、この3つの物語を ‘παρουσία’ (キリストの再臨)の物語として「解釈」しています。

私は今、「イエス様の口を通して語られる3つの例え話しを、マタイ福音書の著者が、キリストの再臨の物語として解釈した」という非常に微妙な言い回しをいたしました。

こんな持って回った言い方をする理由は、マタイ福音書の著者の例え話の解釈と、イエス様が例え話を語ったときの意図とはイコールではないからです。

今日の、有名な「タラントンの例え話」の「マタイ」による解釈は、極めてシンプルです。基本的には、先週の福音書朗読で読まれた物語の解釈と変わりません。

財産を僕たちに預けて旅に出る人、僕たちの主人はイエス様です。主人から5タラントンと2タラントンを受け取った僕は良い教会のメンバーで、1タラントンを受け取って地面に埋めた僕は悪い教会のメンバーです。主人が帰ってくるのは、キリストの再臨であり、それは最後の審判の時です。

5タラントンを預かって5タラントンを儲けた僕と、2タラントンを預かって2タラントンの儲けを出した僕が迎え入れられた「主人の祝宴」は神の国です。

1タラントンを預かって地面に埋めて、預かった1タラントンをそのまま主人に返した僕は、悪い臆病な僕としてイエス様に退けられ、「主人の祝宴」に、神の国に入れてもらえません。

マタイ福音書の著者によるタラントンの例え話の解釈に、難しいことは特にありません。さらに、この解釈を示すことで、著者が何をしようとしているのかも容易にわかります。

彼は教会のメンバーたちに対して、「良く働く、有能で忠実な僕として、神に受け入れられるように努力しなさい。怠けて神の国から落ちこぼれないように気をつけなさい。」そう言っているわけです。

しかし、このマタイ福音書の著者の解釈は、イエス様の意図からはかなり大きくずれています。

イエス様が様々な例え話を語って「しようとしていた」ことは、神の国の活動家を生み、育てることでした。

イエス様の弟子になるということは、彼が述べ伝えていた神の国の活動家になるということです。イエス様の弟子は、神の国の作り手なのです。

イエス様が語る例え話は、ほとんどいつも誇張法です。誇張法は、聞く人にショックを与えて、ポイントを際立たせるための技法です。

今朝のタラントンの例え話のポイントは、1タラントンを預かった僕の行動にあります。

僕たちが預かったタラントンの額は、大して重要じゃありません。また、この例え話は、神がどんなお方であるかを明らかにすることを意図したものでもありません。

ナザレのイエスが示された主なる神は、慈しみ深く、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、恵みを注がれる方です。イエス様はこの物語に登場する「財産を預けて旅に出る主人」の姿を通して、神は投資銀行のCEOのような方だと言おうとしているのではありません。

イエス様の例え話を聞いていたユダヤ人たちは、この「財産を僕たちに預けて旅に出る主人」を、異邦人の裕福な商人と見なしたはずです。

27節で主人は僕に向かってこう言っています。「27 それなら、私のお金を銀行に預けておくべきだった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。」

イスラエルの民が神の掟と見なしていたモーセの律法は、利子をつけて金を貸すことを禁じています。ということは、この主人は異邦人であって、ユダヤ人ではありません。

イエス様の時代のイスラエルにおいて、政治的に力を握っている者たちや、大地主や大金持ちの多くは異邦人でした。

物語の主人は、ローマ帝国の属州であった当時のパレスティナの社会状況を反映しているだけであって、繰り返しになりますが、イエス様はこの例え話を通して、「神がどんな方か」を語ろうとしているのではありません。

では、イエス様はタラントンの例え話を語ることによって、何をしようとしたのでしょうか?

彼は、1タラントンを預かって地面に埋め、そのまま主人に返そうとした僕の姿を通して、神の国の活動家として絶対に避けるべき態度を明らかにしているのです。

もしかすると、皆さんの中には、1タラントンなんて、はした金じゃないかと思っている方もあるかもしれませんが、これは15年分の賃金にあたります。どんなに少なく見積もっても、日本円で5千万円以上だと思います。少なくとも私の金銭感覚からすれば、1タラントンというのはかなりの大金です。

27節で「銀行」と訳されているのは、私たちがイメージするような銀行でもなければ、安全な資産運用を謳う投資銀行でもありません。これは両替屋です。彼らは手数料を取って両替をし、利子をつけて金を貸します。

けれども forex (FX) に手を出している人ならすぐにお分かりのように、両替屋に資産運用を任せることは、完全なギャンブルです。主人が言っている通りに、両替屋に1タラントンを預けたところで、利子付きで元本が返ってくる保証はどこにもありません。

実は1タラントンを預けられた僕は、元本を増やせなかったから主人にどやしつけられているのではありません。彼は、預けられたものをただ守ろうとして挑戦ししなかったために、主人に叱責され、預けられた1タラントンを取り上げられたのです。

つまりイエス様は、神の国の活動家となった弟子たちに、「リスクを冒せ!」、「挑戦しろ!」と言っているのです。

そもそも、私たちに与えられているすべてのものは神様から来ているのですから、私たちがどんなにリスクを冒しても、その結果として、例え自分の思うような結果が出なかったとしても、神様は何も失いません。

教会も、神の国のためにリスクを冒したからといって、何も失いません。挑戦することによって教会が衰退することもありません。

むしろリスクを避けて、自分たちの伝統や、自分たちのやってきたことや、自分たちの形に挑戦せずにここまでやって来た結果、多くの教会が消滅の半歩手前のところにいます。

教会の外には、キリスト教に関心のある人たちも、聖書に興味のある人たちも、教会に行ってみたいと思っている人たちも、少なからずいます。

ところが、私たちがリスクを冒すことを恐れている間に、キリスト教や教会に関心のある人たちが、キリスト教を語るカルトに取り込まれています。

さらに、自分を守るためにリスクを恐れ、チャレンジ避けることは、神の国の平和を作る使命を放棄する沈黙へと私たちを誘います。

今、パレスティナの人々が被っているとてつもなく大きな苦しみは、私たちの自己保身が、イスラエルの悪を増長させた結果です。

私を含め、世界中のクリスチャンが、シオニストから「反ユダヤ主義者」というレッテルを貼られることを恐れて、パレスティナの人々の苦しみに目を瞑りました。

私たちがリスクを恐れ、イスラエルの悪に挑戦しなかったことが、イスラエル軍によるガザでの虐殺を可能にしたのです。

私たちは今日、神の国のために「リスクを冒せ!」、「挑戦しろ!」という主イエスの声を聞きました。

この声に応えて、私たち聖マーガレット教会が、イエス・キリストの弟子を生み、育て、神の国の平和を作るためにリスクを冒し、挑戦する教会となることができますように。