降臨節前主日 説教

11月26日(日)降臨節前主日(A年)

エゼキエル 34:11-17; Iコリント 15:20-28; マタイ 25:31-46

今日はマタイ福音書25章に置かれている、 ‘παρουσία’ 「キリストの再臨」に関する3つのお話の最後のものを読みました。

3つの話はどれも、神の国が完成される時、イエス様が再び帰って来るという教会の信仰を表したものですが、今朝読まれた31節から46節の物語は、前の2つの物語とはかなり違います。

先々週読まれた「十人のおとめ」例え話と、先週の「タラントン」の例え話には、核となる部分にイエス様自身の声のこだまが聞こえます。

ところが今日の物語の中に、イエス様自身の声を識別することは極めて困難です。

今日の話は、厳密に言うと例え話ではありません。そこに表されているのは、マタイ福音書の背後にある教会の再臨理解です。マタイ福音書の教会は、イエスが再び来られるときは、イエス様が父なる神に代わって、最後の審判を行う時だと思っていました。

旧約聖書の預言書の中には、「主の日」への言及が沢山あります。

主の日というのは、大雑把な言い方をすれば、神の掟に逆らい、正義を捨てて不正を行う支配者たちを、神が裁き、滅ぼす時です。これが拡大解釈されて、神が「諸国の民」を裁く「最後の審判」として語られるケースもあります(Ez 30:3; Joe 4:2)。

今朝の福音書朗読の物語は、イエス・キリストが帰還される時は、イエス・キリストご自身が父なる神に代わって、諸国の民を「永遠の懲らしめ」か、「永遠の命」に振り分ける「主の日」なのだと言っているわけです。

ここで興味深いのは、神の国に入れられる人も、「悪魔とその使いたち」のために用意された火の中に放り込まれる人たちも、両方、驚いているということです。ここには、イエス様が語った神の国の「逆説」が響いているのでしょう。

イエス様が語った神の国は、自分が入れると思っている人が入れず、自分は入れないと思っている人が入れられていることに驚くようなところです。神の掟を守って生きている自分は神に愛され、神に祝福されていると思っている人たちは、その中にいません。

ところが、「律法に従って正しく歩んでいる人たち」から、「あいつらは神に呪われた、滅ぼされるべき連中だ」と言われている人たちが、その中にいます。

ところが、「最後の審判」としてのキリストの再臨という今日の物語の中には、イエス様ではなくて、イエス様が退けた律法主義が帰って来ています。

律法主義というのは、神の掟に従って歩むことが、神の祝福を受ける道だという考えですが、イエス様は、人の業に応じて神様が祝福したり呪ったりするという考えを完全に退けました。

ところが皮肉なことに、マタイ福音書の教会は、イエス様を「新たな律法主義者」にしてしまいました。

イエス様が語った神の国の逆説は、イエス様が「アッバ」と読んだ神から来ています。イエス様にとって、神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です。

イエス様が弟子たちに「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じられるのは、弟子たちの生き方を通して、「悪人にも善人にも」、「正しい者にも正しくない者にも」、恵みと祝福と慈しみを注いでおられる神の姿を世に示すためです。

しかしマタイ福音書はイエス様を「新しい律法主義者」として描くことによって、神の国の逆説を無効にし、イエス様が語られた神の姿を見えにくくしています。

もちろん、神様は「最も小さな者の一人に」対して私たちがすることを、喜んでくださいます。しかし、私たちは神の国に入るために、「永遠の命」を受けるために、「最も小さな者の一人に」目を向け、何かをしようとしているのではないはずです。

むしろ私たちは、到底入るに値しない者なのに神の国に入れられ、善人でもなければ正しくもないのに、神の恵みと祝福を受けているから、この世が目を向けようとしない、「最も小さな者」たちと、私たちが受けている、恵みと祝福を分かち合おうとしているのです。

「敵を愛しなさい」と私たちに命じる神は、敵を憎む神なのだと言い始める時、私たちはナザレのイエスの道を踏み外しているはずです。

復讐してはならないと命じる神が、ご自分に逆らう者たちを滅ぼされると神だと主張するとき、私たちはナザレのイエスが示された神から離れていきます。

イエス様が、バプテスマのヨハネと袂を分かつことになったのは、バプテスマのヨハネの神の国と結びついていた最後の審判を、イエス様が受け入れられなくなったからです。

「他の者たち」は神の怒りに定められているけれども、「自分たち」は救いに定められてると私たちが言うとき、私たちは悪魔と手を結び、暴力を正当化する準備を始めます。

実際、今日の福音書朗読にも見て取れるように、「キリストの再臨」という教義は、神の暴力が完全に発動される時と見なされています。

そして、「キリストの再臨」が神の暴力と固く結びついているが故に、この教義は教会の歴史の中で、狂気と暴力とを正当化する装置として繰り返し利用されて来ました。

アイルランド聖公会の司祭だった John Nelson Darby は、19世紀前半(1830年台)に、キリストが再臨する前にパレスティナにイスラエル国家が再興されるという「聖書解釈」を展開しました。彼は大英帝国の中枢にいる人たちにも絶大な影響力を持っていて、それはバルフォア宣言へとつながります。

アメリカ福音派を生み出したのも、Darbyであり、現在でも福音派は、アメリカ最大のイスラエル支持団体です。

「著名な」福音派の牧師たちが、今なお、パレスティナは「イスラエル」に与えられた土地だと主張する説教を繰り返し、パレスティナの人々に対するイスラエル軍の虐殺行為を正当化することに貢献しています。

先日は、偉大な福音伝道者と呼ばれた Billy Graham の息子、Franklin Grahamがイスラエルのネタニヤフ首相のもとを訪れ、イスラエルに対する支持を表明しました。このクリスチャン・シオニストのTwitterアカウントには290万人のfollowersがいます。

10月7日以降、ガザでは約18,500人の民間人がイスラエル軍によって殺されました。そのうちの8,200人は子どもたちであり、4,100人は女性です。病院、学校、モスク、教会までも攻撃され、ありとあらゆるインフラが破壊され、食糧、水、燃料の供給すら絶たれ、220万の人口の内、173万人以上が住処を失いました。

このシオニスト国家の巨悪に宗教的正当化の手段を与えたのは、クリスチャン・シオニストたちです。

私たちが、今の段階で、パレスティナの人々のためにできることは、本当に限られています。

しかし私たちが、シオニズムと反ユダヤ主義という2つの罠を回避しながら、未来の平和を作るために働くことを願うなら、私たちの信仰の内にある闇と、「キリストの再臨」という教義の中に隠された深い闇と向き合う必要があります。

来週から私たちは、降臨節に入ります。伝統的に、降臨節は「忍耐して到来を待ち望むとき」、すなわちキリストの再臨を待ち望む時とされてきました。

しかし私たちはもはや、再臨という教義の中に潜む闇から目を背けて、これまで通り、「主が再び来られる日を待ち望みましょう」と言いながら降臨節を過ごすことなどできません。

聖マーガレット教会が、世にあって、神の国の平和を作る民として仕えるために、光なるキリスト・イエスが、再臨の教義に潜む闇を照らしてくださいますように。