











12月03日(日)降臨節第1主日(B年)
イザヤ書 63:19b-64:8; Iコリント 1:3-9; マルコ 13:24-37
降臨節の第1主日を迎えました。教会のカレンダーでは、この日から新しい一年のサイクルが始まります。
巷では11月の初め頃からクリスマスソングが流れていましたが、教会のクリスマス・シーズンは今日から1月6日の顕現日、Epiphanyまでとなります。
さて、少しだけカレンダーを遡ります。皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。11月12日の特定27主日から、先週の日曜日、11月26日の降臨節前主日までの3週間、福音書朗読としてマタイ福音書25章の3つの物語が読まれました。
その3つの物語はすべて、キリストの再臨に関するものでした。新約聖書の中で、キリストの再臨は世の終わりの出来事、終末論的な出来事として語られています。
そして今日、教会のカレンダーで1年最初の日曜日、降臨節第1主日の福音書朗読も、キリストの再臨の箇所です。
つまり、教会暦の1年は終末論で閉じられて、新しい1年の始まりが終末論で始まるように作られているのです。
ここには教会歴の背後に隠れた神学があります。それはヨハネの黙示録22章の12節と13節から取られたもので、そこにはこうあります。
「見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである。」
「アルファ」はギリシア語の最初のアルファベットで、「オメガ」は最後のアルファベットです。ヨハネの黙示録の著者はここで、世界はキリストにあって始まり、キリストにあって終わると言っているわけです。
教会暦の1年が、終末論で始まって終末論で終わるのは、世界がキリストにあって始まり、キリストにあって終わるという黙示録の神学に倣っているからです。
西方教会の伝統では、1年の最初を飾るAdvent(降臨節)の季節は、死と裁き、天国と地獄のことを思い巡らせながら、忍耐をもってキリストの「到来」を待つことを学ぶ時とされてきました。
忍耐をもって待つべき到来というのは、イエス・キリストの誕生ではありません。それはキリストの再臨です。
ここからも、イエス・キリストが裁き主として再び来られ、人々を永遠の救いと、永遠の滅びとに振り分けるという終末論を軸に教会のカレンダーが回っているということがわかります。
しかし教会暦の中心に据えられている終末論の中に、キリスト教のもっとも深い闇が潜んでいます。
クリスマスは闇の中に輝く光のドラマであり、降臨節は闇に目を向ける時です。
しかし皮肉なことに、キリスト教の終末論こそ、パレスティナのガザを地獄とし、2万人を超えるパレスティナの人々に死をもたらしている「闇の力」なのです。
このところ毎週のように繰り返していることですが、1948年に建国を宣言したシオニスト国家イスラエルを生み出したのは、クリスチャン・シオニズムです。
Theodor Herzl が1896年に Der Judenstaat (the Jewish State) という本を出版し、ユダヤ人が自分たちの民族国家を持つべきだと主張したとき、正統主義ユダヤ教のすべてのラビたちはこれを拒否しました。ユダヤ人をユダヤ人たらしめているのは共通の言語でも、共通の文化でも、土地でもありません。
紀元後70年のエルサレム神殿崩壊以降、世界中に散らされて生きてきたユダヤ人にとって、ディアスポラという存在の仕方と、ユダヤ人というアイデンティティーは、決して切り離すことのできないものでした。神によって散らされた場所で、律法に従って生きることこそがユダヤ人をユダヤ人たらしめているのだ。それがユダヤ人のユダヤ人理解でした。
ところが、「クリスチャン・シオニスト」と呼ばれる人々が、シオニズムに「神学的」意味づけをし、パレスティナの地にシオニズム国家イスラエルを生み出す上で決定的な役割を果たしました。
クリスチャン・シオニズムの創始者、 John Nelson Darby は、アイルランド聖公会の司祭でした。19世紀前半、彼は、イエス・キリストの再臨に先立ってユダヤ人がパレスティナに帰還し、イスラエルが再興されると聖書の中で預言されているという主張を展開します。
Darbyは後にアイルランド聖公会を離れ、1862年以降は多くの時間をアメリカで過ごして、アメリカの福音派勢力の形成に決定的な影響を及ぼします。彼はアメリカで多くの福音派リーダーを生み出しましたが、中でも Cyrus Ingerson Scofield の名は特筆に値します。
キリストの再臨に先立って、パレスティナにユダヤ人国家イスラエルが再興されるというDarbyの神学は、1909年にオックスフォード大学から出版された『Scofield引照付き聖書』によって、英語圏全体に伝染しました。
『Scofield引照付き聖書』というのは、Darbyが翻訳した聖書本文に、Scofield が Darbyの聖書解釈を注釈として加えたものです。
この聖書は、アメリカの福音派教会で使われる標準聖書となりました。その結果、キリストの再臨に先立って、パレスティナにユダヤ人国家イスラエルが再興されるというDarbyの主張は、アメリカの福音派教会の中で、ほとんど「正統教義」の位置を占めるようになりました。
大英帝国の政治中枢にいた Lord Shaftesbury, David Lloyd George首相、Lord Balfourといった人々も、Darby の聖書解釈を熱狂的に受け入れました。
そして、キリストの再臨に先立って、パレスティナにユダヤ人国家イスラエルが再興されるという聖書の「預言」は、大英帝国の植民地政策を通して「成就」されることになったのです。
そのプロセスは、イギリス人がアメリカ大陸に押し寄せ、Native Americans に対する民族浄化を進め、彼らの土地を奪い、アメリカ合衆国を作り上げたのとまったく変わりません。
反ユダヤ主義に蝕まれたヨーロッパのキリスト教世界は、ユダヤ人がヨーロッパからいなくなることを好ましいことだと思っていましたし、Darbyの聖書解釈は、ユダヤ人をヨーロッパからパレスティナに追い出すための、格好の口実となりました。
ユダヤ人がパレスティナにイスラエルを再興することは聖書の「預言」だという終末論は、民族浄化によってパレスティナ人から略奪した土地に、シオニスト国家を作り、アパルトヘイト体制を維持するための「神学的武器」となりました。
大英帝国も、アングリカンの教会も、アメリカの福音派も、パレスティナ人を無視し続けました。この事実は、「民なき土地を、土地無き民に」というシオニズムのスローガンに、端的に表れています。
ホロコーストという巨悪によって倫理的足場を失った西洋世界は、「反ユダヤ主義だ」と言われるのを恐れて、シオニスト国家のあらゆる残虐行為を黙認してきました。
しかし、シオニズムはユダヤ人至上主義と民族浄化とアパルトヘイトを正当化するイデオロギーであって、ナチズムとなんら違いません。
反シオニズムは、反ユダヤ主義ではありません。
Noam Chomsky, Norman Finkelstein, Ilan Pappé, Miko Peled、この人たち皆ユダヤ人です。しかし彼らは、歴史的事実に基づいて、最も辛辣なシオニズム批判を展開しています。
Jewish Voice for Peaceというアメリカのユダヤ人団体は、長い間、シオニズムへの態度を保留したまま活動を続けてきました。しかし、シオニズムがユダヤ人至上主義と民族浄化とアパルトヘイト体制を支えるイデオロギーであることに気づいて、シオニズムを放棄しました。
ナチス政権の打倒を叫ぶことは、ドイツ人を皆殺しにしろという要求ではありません。南アフリカのアパルトヘイトを批判することは、白人の殲滅を要求することではありません。同じように、シオニズム国家の打倒を叫ぶことは、ユダヤ人の虐殺を求めることではありません。
ナチズム無しでドイツ人は生きていけます。アパルトへ政権が倒れても、南アフリカの白人は生きていけます。シオニズム無しで、ユダヤ人も生きていけます。
シオニスト国家イスラエルの生み出したのは、教会が掲げてきた終末論です。
この降臨節は、教会の生み出した深い闇を覗き込み、その闇がもたらす死と地獄とに向き合うときでなくてはなりません。
それをしなければ、私たちはさらなる地獄と、さらなる死をもたらす命の敵に、平和の破壊者に留まることになります。
イエス・キリストの父なる神が、自ら生み出した深い闇の中に留まる私たちに、まことの光、平和の君として、イエス・キリスを現してくださいますように。
