降臨節第3主日 説教

12月17日(日)降臨節第3主日

イザヤ 61:1-4, 8-11; Iテサ 5:16-24; ヨハネ 1:6-8,19-28

先週、12月10日の日曜日に福音書朗読で読まれたマルコによる福音書1章1節から8節も、今日の福音書朗読も、バプテスマのヨハネに関する箇所です。

ヨハネ福音書はもっとも遅くに書かれた福音書で、1世紀から2世紀への世紀の変わり目の時に書かれました。

意外なことかもしれませんが、その頃にもまだバプテスマのヨハネの弟子集団が存在していて、活動を続けていました。

その事実が端的に示しているのは、バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエス・キリストの道備えをすることが、バプテスマのヨハネの役割だとは思っていなかったということです。

バプテスマのヨハネ自身も、そうは思っていませんでした。彼は、「ナザレのイエスが現れたので、私の役割は終わりました。今後は彼の弟子として神の国の働きを続けてください」とは言いませんでした。

しかし、クリスチャンたちは、バプテスマのヨハネはイエス・キリストの敵ではなく、彼のために道備えをしてくれた人だと考えるようになりました。

これは非常に興味深いことです。イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、彼の神の国運動に参加したにも関わらず、早々にそこから離脱します。しかもバプテスマのヨハネの弟子たちを引き抜いて、独自の神の国運動を始めました。

イエス様とバプテスマのヨハネの間には、決して相容れない何かがあり、対立があったことは明らかです。

それにも関わらず、福音書の中で、バプテスマのヨハネは、イエス様の敵対者として描かれていないんです。むしろ、イエス様の神の国の福音のために準備をしてくれた人だ。そう見做されているのです。

では、クリスチャンたちは、具体的に、バプテスマのヨハネが語り、したことの何を、イエス様が語った神の国の道備えと見做したのでしょうか。

それは、バプテスマのヨハネの「立ち返れ」という宣言です。彼は、「今の世から立ち返らなければならない」と民に教えていました。

「立ち返れ」という宣言は、旧約聖書の預言者の伝統に属しています。

預言者は、抑圧されている者たちに神が与えてくださる慰め、励まし、喜びを語ります。預言者は、抑圧する者たちに対する神の裁きを語ります。抑圧する者たちに対する裁きは、抑圧される者たちにとっては、正義が実現されるという希望です。

しかし、預言者が語る慰め、励まし、喜び、裁き、正義は、今、すでに、そこにあるものではありません。それらはみな、近い未来に与えられるもの、そう遠くないうちに起こることとして語られます。

それが意味するところは、正義と公正が行われているところで預言は語られないということです。すでに正義と公正がなされ、喜びと平和が実現しているところに、預言は必要ありません。預言は、正義を踏み躙り、公正を捨て去った政治のあるところで語られるのです。

「立ち返れ」という言葉は、その時代を支配する者たちによって作り出された現実に「No と言うようように」、時勢に抗うようにという呼び掛けです。

預言者が貧しい者たちに言及する時、その背後には貧しくする者たちがいます。

預言者が「苦しむ者たち」に言及する時、その背後には苦しめる者たちがいます。

預言者が抑圧された者たちについて語る時に、その背後には抑圧する者たちがいます。

解放が必要なのは、縛り上げ、捕らえている人たちがいるからです。

幼子イエスが生を授かった世界は、時の権力者が、自分の権力と特権を維持するためなら、幼い子どもを皆殺しにすることすら厭わない、そういう世界でした。

バプテスマのヨハネは、まことの預言者として、正義と公正が踏み躙られ、権力と特権を維持するために民衆が抑圧され、搾取され、殺害され、平和が破壊される政治的現実から「立ち返れ」と人々に迫りました。

クリスチャンたちは、このバプテスマのヨハネの道備えによって、イエス様がどんな救い主なのかを知ることができるようになったのです。

それは、先ほど唱えた「マリヤの賛歌」の中にも、明確に唄われています。

「主はみ腕の力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力を振るう者をその座から下ろし、身分の低い人を引き上げ、飢えた人を良い物で満たし、富んでいる人をむなしく追い返される」

ここには、イエス・キリストが、この世の政治によって捨てられた人々の解放者であることが、明確に示されています。

イエス・キリストという救い主は、私たちの間に現れてくださる方ですが、私たちが所有することのできるような方ではありません。

キリストは常に自分の側にいると思った時、彼はすでに私たちのもとを去っています。いえ、むしろ、私たちがイエス様を捨て去った言うべきでしょう。

イエス・キリストは、私たちが受けている恵みを、祝福を、富を、安全を、抑圧され、囚われ、苦しめられている人々と分かち合い、彼らと共に生きようとする時、私たちの「間に」現れ、私と共におられる救い主です。

自分の利益のために、自分が有利になるために、自分が優遇されることを求めて、苦しめる者たち、貧しくする者たち、抑圧する者たちの側につく時、私たちは間違いなく、イエス・キリストの後に従って歩むことを止めています。

もし、あなたが抑圧されている人であれば、イエス・キリストはあなたを解放し、自由にしてくださる方です。

もし、あなたが人を抑圧し、苦しめ、貧しくする者であれば、イエス・キリストはあなたに不正な道を捨てさせ、正義に立ち返らせる方です。

そして私たちは、長い人生の中で、そのどちらにもなります。

今、抑圧され、苦しめられ、貧しくされている者たちが、数年後には抑圧し、苦しめ、貧しくし、人の命を奪う者になっていることだってあり得ます。

逆に、これまで人々を苦しめ、抑圧し、貧しくしてきた人が、自分の特権と有り余る富とを、人々を苦しみから解放し、抑圧から自由にし、豊かにするために使う人になることだってあり得ます。

しかし、不正と残虐さと平和の破壊から目を逸らすキリスト教は、イエス・キリストを「安価な恵み」に、Cheap Graceにしてしまいます。

Cheap Graceとなった福音はもはや、闇からの解放をもたらす力ではなく、Martin Luther King Jr の語った、自分の心地良さと自分の心の安らぎを得るための tranquilizer, 精神安定剤に過ぎません。

私たちは、「聖公会ってどんな教会ですか」と聞かれると、やれ Royal wedding だ、Westminster Abbyだ、カンタベリー大聖堂だと言って、「英国国教会の流れを汲む、由緒正しい教会なんだ〜、ハッハッハー」みたいな反応をしがちです。

しかし聖公会は、大英帝国の帝国主義とその植民地政策と密接に結びついた教会で、植民地での民族浄化や略奪や奴隷売買を宗教的に擁護した教会でもあるんです。

そしてパレスティナの人たちが、大英帝国とシオニストによって1世紀以上もの長きに渡って抑圧され、苦しめられているのも、私たち聖公会の罪の結果です。

そんな罪深い教会なのに、神は慈しみを注ぎ、私たちを愛と祝福の中で生かしてくださいっています。

そして、私たちを闇の力から解き放ち、互いに分かち合い、互いに仕える者とし、神の国の平和を作るために、私たちを用いようとしてくださっています。

 What amazing grace!

なんと驚くべき恵みでしょうか。