顕現後第2主日 説教

1月14日 顕現後第2主日

Iサム3:1-10 (11-20); Iコリ6:12-20; ヨハネ 1:43-51

説教の冒頭で、皆さんにお願いがございます。今朝の第一朗読は、3章1節から10節までしか読んでいませんが、これからお話しする話は20節までの内容を扱っています。ぜひお家で3章1節から20節までをお読みください。

さて、サムエルの母ハンナには、長い間子どもが与えられませんでした。夫のエルカナには、ハンナの他にもう一人、ペニナという妻がいて、彼女には息子たちも娘たちもありました。ペニナは子どもを産むことのできないハンナに対して、執拗な嫌がらせを繰り返していました。

エルカナの家は、毎年、ラマからシロという街にある神殿に巡礼に出かけていました。ある年、ペニナからの嫌がらせに苦しむハンナは、神殿でこう祈りを献げました。「万軍の主よ、どうかあなたの仕え女の苦しみを御覧ください。この仕え女を心に留めてお忘れにならず、男の子を賜りますならば、その子を一生主にお献げし、その頭にはかみそりを当てません。」

 この祈りを献げた後、ハンナはみごもり、男の子を生み、その子をサムエルと名づけました。ハンナは祈りの中で約束した通り、乳離れして間もないサムエルを、シロの神殿の祭司であるエリの手に委ねます。

今朝の第一朗読の3章では、サムエルはすでに少年になっていて、エリの下で神に仕えています。ここまでが今日の第一朗読の背景説明です。

 シロの神殿は移動式の天幕神殿で、一番奥の聖所に、神の箱が置かれていました。少年サムエルのベッドは、神の箱が置かれている所のすぐ近くにありました。恐らく、神の箱の番をするのが、サムエルの役割だったのでしょう。

 眠っているサムエルに、神が「サムエル」と呼びかけると、サムエルは祭司のエリに呼ばれたと思い、彼のところに走っていきます。しかし、「私は呼んではいない」と言って、再びベッドに返されます。

 同じことが3回続き、エリは三度目に、神がサムエルに呼びかけていることに気づきます。そして、もし再び呼びかけがあったら、次は「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えるようにとの助言を与えて、サムエルをベッドに帰らせます。

 すると再び神がサムエルに呼びかけ、サムエルはエリに教えられた通り、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えて、ついに彼は神の言葉を聞きます。

 この一連の出来事は、サムエルが神の言葉を聞くことのできる、本当の預言者になったのだということを表すものです。

 サムエルという預言者の影響力と権力とは絶大なもので、イスラエルの初代の王となるサウルを選んだのもサムエルです。

 さらに、自分が王として油を注いだサムエルから王位を奪って、ダビデを新たな王として選んだのもサムエルです。預言者サムエルの権威は、王の権威をも凌ぐものであったことが、このことからわかります。

 サムエルの場合もそうですが、預言者が神の言葉として語るのは、主に「破滅」です。

 預言者が慰めの言葉を語ることもあります。しかし破滅の宣言が常に、慰めの言葉に先行します。滅ぼされるべきものが滅ぼされなければ、本当の慰めはないということなのかもしれません。

 神がサムエルに語った最初の言葉は、自分が仕えている祭司エリの家の破滅でした。神は、エリの二人の息子の傍若無人な行いの故に、エリの家を滅ぼすとサムエルに告げます。

 少年サムエルは、神の語った言葉をエリに伝えることを恐れました。しかし夜が明けて、エリに呼び出されたとき、サムエルは神が彼に語った言葉をすべて隠さずに知らせました。

 後に、エリの息子のホフニとピネハスはペリシテ人との戦いの最中に戦死し、神の箱が奪われたことを聞いた年老いたエリは、ショックで椅子から転げ落ちて首の骨を折って死亡します。

 こうして、エリの家が滅びた後、預言者サムエルが、イスラエルを治めることになります。

 今日の説教を準備しながら、私の心に重く響いたのは、サムエル記上3章15節の「サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた」という言葉でした。

 不吉なことや恐ろしいことについて話を聞く時、人の心は暗くなります。気分が沈みます。壊滅的な話に喜びを感じる人などいません。

 ましてや教会が告げ知らせるのは、本来、喜びの知らせ、福音です。人の心を明るくし、慰めと励ましを与えるような説教をしたいと、私もいつも思っています。

 しかし、迫り来る危険を見ぬふりをし、語ることを避ければ、破滅は益々大きくなります。

 福音の中に慰めと励ましを見出すために、私は今日、大きな破滅の危険についてお話をしなければなりません。

 昨年の12月29日、南アフリカ共和国は、イスラエルが国際法に違反して、ガザのパレスティナ人に対する民族浄化と虐殺を行なっているとして、オランダのハーグにある国際司法裁判所 (ICJ) に提訴しました。

 1月11日の木曜日に、南アフリカ代表による証言と証拠資料の提示が行われ、12日の金曜日にイスラエル側の弁明が行われました。

 単純に、国際法に照らして判決を出すだけであれば、イスラエル軍がガザで行ってきたことは120%、確実に、虐殺として認定されます。

 虐殺や民族浄化は、歴史の中で、何度も繰り返されてきました。しかしイスラエルによるパレスティナ人の虐殺は、世界中の人々の目の前で展開されているという点において、人類史上初めてのものです。

 イスラエル軍による爆撃を生き延びているガザの人々が撮影した動画や画像は、即座にインターネット上で公開され、虐殺現場の地獄のような様子を映し出しています。

 しかも、虐殺行為を行なっているイスラエル軍の兵士や、イスラエル政府高官たちの発言もすべて、ネット上で公開されています。

 国際法によって虐殺を認定する上で、もっとも高いハードルは、当事者の「意図」を証明することです。

 通常、虐殺行為を行なっている当事者たちは、特定のグループに多くの死者が出たのは、意図せぬ結果だと主張して、虐殺の意志があったことを否定します。

 ところが今回のケースはまったく違います。政府高官や軍事指導者が、明確に民族浄化を主張し、その様子が動画で撮影され、ネットに公開されているからです。

 国際法に照らせば、イスラエル軍の行動が虐殺行為であることを否定する余地はまったくありません。しかし、多くの場合、いえ、ほとんどの場合、法は政治によって歪められます。

 国際司法裁判所を含め、国際機関のほとんどすべてが西洋諸国に存在しています。

 この単純な事実が示しているように、第二次世界大戦後の「世界秩序」と呼ばれているものは、白人至上主義と植民地主義の延長に過ぎません。

 アメリカを中心とする西洋諸国の主要メディアは、南アフリカ代表の証言と証拠提示は一切報道せずに、イスラエル側の反論だけをライブで中継しました。

 さらに西洋諸国の政府はこぞって、南アフリカの訴えには根拠がないと主張して、イスラエル支持を繰り返し表明しています。 昨年10月7日以降の西洋諸国の政治家たちの発言と、主要報道機関の報道内容を見れば、彼らが西洋的価値観として掲げてきた普遍的人権や国際法を、有色人種に適用するつもりは微塵もないことがわかります。

 もし今回のケースについて、国際司法裁判所が「虐殺ではない」との判決を下した場合、それは、西洋世界が掲げてきた国際法や普遍的人権といったものが、西洋の特権階級を守るための虚構に過ぎなかったと宣言することになります。

それは同時に、権力を縛る規制など存在しないという宣言ともなります。

 そうなればもはや、剥き出しの暴力によって人々を支配することを誰もためらわなくなり、第2、第3、第4のガザが生まれることになるでしょう。

 遠くパレスチナの地で起こっている悲劇は、対岸の火事ではありません。それは、明日の私たちの生活を決定的に変えてしまう可能性のある出来事です。

 古い「世界秩序」が倒れた後、何が現れるのかは、誰にもわかりません。帝国は現れ、帝国は倒れます。

 しかしイエス・キリストの神の国は、この世の政治に依存してはいません。古い世界秩序が壊れても、私たちは、神の国の民として生きることができます。そこに私たちの希望があります。

聖マーガレット教会に連なる私たちが、神の国の命を生き、暴力に脅かされる世界の中で、平和の種を蒔くことができますように。