









1月28日(日)顕現後第4主日
申命記 18:15-20; Iコリント 8:1-13; マルコ 1:21-28
26日の金曜日、イスラエルによる虐殺行為を止めるための暫定措置を命ずるようにと南アフリカが提訴した件について、ハーグの国際司法裁判所 (ICJ: International Court of Justice) が判断を下しました。
国際司法裁判所はまず、南アフリカの訴えに対する全般的見解を次のように述べました。
「当法廷の所見では、イスラエルによって行われたと南アフリカが訴えた行動と不作為の内、少なくともいくつかは、(大量虐殺に関する協定:Genocide convention)による暫定措置の範疇に入るものと思われます。」
そして ICJ は、南アフリカが訴えたように、ガザのパレスティナ住民に対して回復不可能な人権侵害が行われていることを認めました。残念ながら、南アフリカが求めた即時停戦までは踏み込みませんでした。
しかしICJは実質的に、10月7日以降にイスラエルがガザで行ってきたことのすべてをやめるようにと、イスラエル政府に命じました。その上で、ガザの人々の日常的生活に必要とされるものを速やかに供給するために、あらゆる手段を講じるように命じました。これは、食糧、医薬品、燃料を届け、電気、ガス、水道を復旧する義務をイスラエル政府が負っているということです。
続けて、パレスティナ人に対する虐殺を扇動するような発言を禁じ、そのような発言をしてきた者を処罰することも命じられました。
さらに国際司法裁判所は、虐殺を疑われるあらゆる行為について、証拠を保全し、証拠隠滅を防ぐあらゆる手段を講じることをイスラエルに命じました。
イスラエルには、これらすべての命令について、どのような対策と措置をとったかを報告する義務があります。
今回のICJの裁定は、法理学的な観点から見れば、95点をつけられるものだったと思います。
巨大な政治的圧力がかけられている中で、ICJが国際法の理念と権威を守るために踏み留まった。これは率直に喜ぶべきことです。
イスラエルも、それを支える西洋諸国の政府も、国際法に従って行動をする気などないので、実効性という点においては、非常に微力かもしれません。恐らく、ICJの暫定措置命令が出た後も、イスラエル側の行動に変化はないでしょう。
南アフリカの提訴には根拠がなく、建設的でもないなどと言って反対してきた西洋諸国の政府、具体的には、アメリカ、カナダ、イギリス、フィンランド、オーストラリア、イタリア、オランダは、ICJの裁定の後に、実質的な報復措置として、国連難民救済事業機関 (UNRWA:United Nations Relief and Works Agency [for Palestine Refugees in the Near Eat) への支出を削減すると言い出しました。
悪辣としか言いようがありませんが、イスラエルとそれを支えてきた西洋諸国の政府にとって、南アフリカによるICJへの提訴は、まったく想定外の展開でした。西洋諸国の政府にとっては、少なくとも国内的には、イスラエル支援を続け、武器を送り続けるハードルは、相当に上がったと思います。
今回の南アフリカの提訴に対するICJの裁定は、実は、今日の福音書朗読箇所を私たちが理解する上で、大きな助けとなります。
22節には、イエス様が律法学者のようにではなくて、「権威ある者のように」教えたことに、人々が驚いたと書かれています。
人の生活は、単なる物理的な力、暴力によって支配されるものではなくて、承認された権威の下で営まれるものとして編まれています。
国際司法裁判所は、イスラエルに対する南アフリカの訴えを、国際法という権威に照らして裁定しました。イスラエルに対する国際司法裁判所の命令が拘束力を持つとされるのは、ICJの判断が、国際法の権威から引き出されているからです。そしてイスラエルには、国際法の権威に従って下された命令を実行することが求められます。
イエス様の時代のユダヤ人社会にも、偉い人たちがいて、偉い人たちは「権威のある人」と見做されてもいました。
例えば、エルサレム神殿を取り仕切る、祭司、長老、サドカイ派の貴族たちは、神殿当局を構成する「偉い人たち」で、神殿で行われるあらゆる祭儀を司る「権威」があると見做されていました。律法学者も、後にはファリサイ派の人たちも、偉い人、権威のある者と見做されるようになりまし。
しかし、祭司であれ、長老であれ、律法学者であれ、偉い人たちが偉い理由、彼らが権威のある人と見做される根拠は、「自分自身」ではありませんでした。
祭司、長老、サドカイ派、ファリサイ派、律法学者、どの人たちの「偉さ」も、「権威も」、その人個人に根拠があるわけではありませんでした。彼らの「偉さ」、「権威」は、更に高い権威から導き出されるものでした。あらゆる権威の源泉としての権威。それは「トーラー」、「モーセの律法」でした。
当時のユダヤ人社会には、律法から出ていない権威というのはありえませんでした。モーセの律法が、すべてのユダヤ人が服従すべき絶対的権威と見做されていたのは、それを守るか否かが、神から祝福を受けるか、あるいは呪いを受けるかを決めると思われていたからです。
しかし、イエス様は、モーセの律法からご自分の権威を引き出すのではなくて、自分自身に権威があるかのように教えました。それで人々は驚いたのです。この「驚き」は、「イエス様は凄い!」という肯定的な反応ではありません。「一体、この男は何を考えてるんだ!」というスキャンダラスな驚きです。
立場や伝統の違いを超えて、ユダヤ人指導者たちは皆、イエス様を亡き者にしなくてはならないと考えました。それは、イエス様が平気で律法を踏み越えて、律法の権威の上に自分を置き、ユダヤ教そのものを崩壊させてしまうような人だったからです。
しかし教会にとっては、このナザレのイエスこそ主であり、あらゆる権威の上に立つ権威です。
では私たちは、イエス・キリストの権威の源泉を、どこに見るのでしょうか?イエス様の権威は、旧約聖書から引き出されたのではありません。イエス様の権威の根拠は、彼を通してなされる解放の働きの中にありました。
イエス様は、自分が悪霊を追い出し、病の人を癒し、罪人と食事をするとき、そこに神が働いておられることを確信していました。それ以外に、自分の権威を保障するための別の権威が必要だとは思いませんでした。
もし私たちが、虐げられ苦しめられる者が解放され、憎しみあう人たちの間に和解が生まれるところに、イエス・キリストの霊の働きを見ることができるなら、神の国の平和を作る者となれるでしょう。
しかし教会はその歴史の中で、ほとんどいつも、ナザレのイエスの権威に逆らって生きてきました。
パレスティナの人々の土地を奪ってユダヤ人に与え、その奪った土地をイスラエルと呼ばせることは、ナザレのイエスの権威に反しています。
アラブの人々をテロリストとして描き、シオニストの無法者たちを被害者に仕立てて、あらゆる悪事を擁護することも、イエス・キリストの権威に反しています。
白人至上主義と植民地主義に結びつき、数限りない植民地を作り、アメリカ合衆国とイスラエルを生んだ教会に属していることを、私は心から恥じています。
しかし同時に、デズモンド・トゥトゥを初のアフリカ系大主教に押し上げた、南アフリカ聖公会と同じ群れに属していることを、私は心から誇りに思っています。
南アフリカは、経済的にも、軍事的にも、お世辞にも「強い国」とは言えません。しかし今回、その南アフリカが、西洋諸国とイスラエルによって、75年以上もの長きにわたってテロリスト呼ばわりされ、抑圧され、踏み躙られてきたパレスティナの人々のために立ち上がりました。
私はこの歴史的出来事の中に、イエス・キリストの霊が、聖霊が働いているのを見ます。
世界中で、多くの人が、南アフリカの行動に勇気づけられ、慰められ、希望を見出しました。
願わくは、苦しむ者、虐げられる者を解放するために、ナザレのイエスを通して働かれた聖霊が、彼の権威の下にある私たちの内にも働き、解放と和解の業を行う者として用いてくださいますように。
