大斎節前主日 説教

2月11日(日)大斎節前主日・変容貌の日曜日

I 列王記 2:1-12; IIコリント 4:3-6; マルコ 9:2-9

 「彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった。」

 私はこの箇所を読む度に、とある会社の洗剤のコマーシャルを思い出してしまいます。

 1987年に「スプーン一杯で驚きの白さに」と謳うコマーシャルと共に世に送り出されたこの洗剤は、それまでの洗濯洗剤のイメージを完全に塗り変えました。

まず、洗剤の箱が、劇的に小さくなったんです。私の子ども時代には、洗濯洗剤は厚紙の大きな箱に入れられて売られていました。とにかく巨大で、洗濯洗剤を一箱買ったら、子どもだったら両手で自分の前で抱きかかえないと運べないほどの大きさでした。そして、洗濯のときには、洗剤をドバドバ入れて、モコモコ泡が立っているのを見て、「よしよし、ちゃんと洗えてる!」そう思ったものです。

 ところがこの新しい洗剤は、それまでの4分の1かそれよりも小さなパッケージに収められていて、しかも洗濯のときに投入する洗剤の量は、同封されてくる小さな軽量スプーン1杯です。

はじめの頃は「こんなに洗剤の量が少なくて、本当に汚れが落ちるんだろうか」と半信半疑で、1杯でいいところを2杯入れてみたりもしました。その後、1杯でも2杯でも汚れ落ちに差がないことがわかって、指示通りに1杯だけで済ませるようになりました。

「スプーン一杯で驚きの白さに」と謳ったこの商品の登場が、それまでの洗濯洗剤の常識を覆した。そう言っても言い過ぎではないと思います。ちなみに、私はこの洗剤メーカーから、1円たりともキックバックを受け取ってはいません。

 で、今日の福音書朗読箇所に戻りますが、これは ‘Transfiguration’ と呼ばれる有名な物語です。

 ‘Transfiguration’ というのは、姿が変わるという意味ですが、日本語では「変容貌」と訳されることが多いようです。

 この変容貌の物語は、洗剤メーカーが「スプーン一杯で驚きの白さに」と謳った商品で洗濯洗剤のイメージを塗り替えたように、ユダヤ人がそれまで抱いてきた「栄光」のイメージを塗り変えようとする企てです。

 この物語に登場するエリヤとモーセは、ユダヤ人にとって非常に大切な二つの伝統、律法と預言者の頂点に位置づけられる人物です。

 この二人は、イスラエルの歴史の中で、神様から特別な栄光を授けられた人だと考えられていたんです。

言わずと知れたモーセは、イスラエルの民を奴隷の地エジプトから連れ出し、民に神の掟、律法を与えたとされる指導者です。律法は権威の中の権威であり、モーセはユダヤ人社会の権威の頂点に位置する存在と言えます。

 エリヤは紀元前9世紀のイスラエルで活動した預言者です。

彼は、イスラエルの王アハブの妻となったイゼベルが持ち込んだ異教の神、バアルの預言者850人と、たった一人で戦い、彼らをみな滅ぼしました。エリヤは、イスラエルを偶像崇拝から解放した英雄であり、預言者の伝統のチャンピオンです。

 そして律法の伝統と預言者の伝統の頂点に立つとみなされていたモーセとエリヤは、どちらも戦士であり、軍事指導者でした。

 イスラエルの歴史における英雄が英雄と見なされるのは、彼らが多くの敵を滅ぼしたからです。

 律法の伝統の頂点であるモーセも、預言者の伝統の頂点であるエリヤも、自分の権威の下にある人々に、敵を滅ぼし、自分に逆らう者を殺害するようにと命じます。

 イエス様の時代にメシアの到来を期待していたユダヤ人は、例外なく、メシアは自分たちの敵を、具体的には、ローマ軍とローマと結託しているユダヤ人当局者を滅ぼしてくれる、優れた軍事指導者だと思っていました。

ところがイエス様は、一人の敵さえも殺すことはありませんでした。

イエス様には沢山の敵がいました。しかし、イエス様は敵を殺しませんでした。イエス様は自分に従う者たちにも、敵を滅ぼすことを禁じました。いえ、それどころかイエス様は、敵を滅ぼす代わりに、「敵を愛し、敵のために祈れ」と、弟子たちに命じました。

 ここにイエス様が神から受ける栄光と、モーセとエリヤが人々から受ける栄光との、決定的な違いがあります。

イエス様は、敵を滅ぼすことを拒否したがために、敵に殺されてしまいました。ですから、イエス様の栄光は敵を滅ぼしたが故に与えられるものではありません。

 では、十字架にかけられて死んでしまうイエス様が受けた栄光とは、一体何だったのでしょうか?

 それは「大パーティーの栄光」です。イエス様が宣べ伝えた神の国のヴィジョンは、すべての人が招かれて、満ち足りるまで飲んで食べて、歌って、踊って、心から喜び楽しむ大宴会です。

 イエス様の栄光というのは、大宴会の席にすべての人を招こうとしたイエス様の夢に、「その通り、私もそれをしようとしているんだ!」という神様からの応答です。

変容貌の出来事は、十字架の死の後に、復活のキリストの顕現として明らかになる栄光の先取りです。それは、神様の夢とイエス様の夢が一つであることを示す出来事です。

 聖マーガレット教会では、今年のイースターの日に、イースターフェスタを開催しようと計画しています。

 最近では、ディズニ・イースターとか、「ハッピーターン イースターMixとか、「チョコボール<カスタード味>」でキョロちゃんとイースターをお祝いしようキャンペーン、などの「おかげで」、巷の人たちも「イースター」という言葉を知るようになりました。

それに伴って、クリスマスの歴史と同じような悲しいことも起きています。「最近は教会でもイースターやるの?」と言われるんです。「最近は教会でもイースターやるの、ってお前、一体何言ってんねん!」と言いたくなりますが、世間の皆さまが、イースターは教会のお祭りだと知らないのは、彼らの責任ではありません。

 私たちがちゃんと宣べ伝えて来なかったから、今だに多くの人たちが、イースターはイエス・キリストの復活のお祝いなんだということを知らないんです。

今年のイースターが、内輪のお祝い事に留まらず、多くの人たちを聖マーガレット教会に招いて、イエス様の「大パーティーの栄光」を、共に垣間見る時となりますように。