大斎節第1主日 説教

2月18日(日)大斎節第1主日

創世記 9:8-17; Iペトロ 3:18-22; マルコ 1:9-15

 先週、14日の「灰の水曜日」から、私たちは大斎節に入りました。大斎節は、イエス様の40日間に渡る荒野での試みに「倣い」、罪を悔い改め、復活日を迎えるために備える期間ということになっています。

 しかし、イエス・キリストが受けた40日間の荒野での試みに「倣って」罪を悔い改め、イースターに備えるという設定は、どの福音書テキストの意図とも合いません。

今朝の福音書朗読で読まれたマルコ福音書の箇所は、荒野の試みの内容については、何一つ書いていません。

しかし、洗礼の直後に荒れ野の試みが置かれているのは、イエス様の神の国の働きが、バプテスマのヨハネから引き継いだものだけではなし得なかったことを示しているとは言えるでしょう。

 イエス様が神の国の働きを始めるためには、師匠から受けたものと向き合い、それを乗り越え、新しい神の国の在り方を見出す準備の期間が必要でした。それが荒野の試みのときです。

 バプテスマのヨハネによる洗礼も、荒野での試みも、イエス様が神の国の働きの始めるための準備です。十字架にかけられるための準備ではありません。

 きっと、「罪を悔い改め、罪と戦い、イースターに備えよ」という教会の呼びかけは、「罪から清められた正しい者だけが救われるのだから」という教会の「正しい信仰」を反映しているのでしょう。

 しかし罪を悔い改め、罪と戦うことを求めてきた「正しい教会」は、平和の破壊者となりました。

ローマ・カトリック司祭としてアメリカ軍の従軍チャプレンを務め、長崎への原爆投下作戦を祝福したジョージ・ザベルカ (George Zabelka)は、戦後、原爆が投下された長崎を訪れ、被爆者たちと向き合います。それは同時に、権力と結びついた教会が生み出したキリスト教の悪と向き合あう時でもありました。

4世紀のローマ皇帝コンスタンティヌス以降、教会はこの世の権力との結びつきを一気に強め、ローマ帝国との一体化が進んでゆきます。世俗権力と教会との癒着は、宗教改革を経ても終わることはなく、今に至るまで続いています。

 皮肉なことに、魂の死をもたらす罪を悔い改め、罪と戦うようにと人々に命じてきた「正しい教会」は、ありとあらゆる悪に手を染める教会となりました。

 いや、むしろ、他の誰かがすれば悪になることも、「正しい教会」がすれば、すべて正しいことになると思うようになったと言った方が正確かもしれません。

長崎への原爆投下作戦を祝福したザベルカは、コンスタンティヌス以降のキリスト教をこう呼びました。「1700年に渡り、主の名によって、復讐、殺人、拷問、権力の追求と暴力とに明け暮れてきたキリスト教。」

 魂の救いのために罪を悔い改めよと語る教会が、「悔い改めの実」としてもたらしたものは、主の名による復讐、殺人、拷問、権力追求、そして暴力に明け暮れるキリスト教だった。

 この現実から、私たちアングリカンも自由ではありません。いや、むしろ、宗教改革後に生まれた教会の中で、ザベルカが語ったキリスト教の姿を体現しているのが、アングリカンの教会だとすら言えるでしょう。

 大英帝国のキリスト教徒たちは、アメリカ大陸に渡り、土着のアメリカ人の虐殺と民族浄化を進め、土地を奪い、アメリカ合衆国を作り上げました。

同じことがオーストラリア、ニュージーランド、そしてパレスティナでも起こりました。

第一次世界大戦後に中東地域を分割し、フランスと共に実効支配するようになった大英帝国は、パレスティナを自分たちの支配地域に組み込みました。それは、大英帝国の植民地政策を通して、クリスチャン・シオニズムの「夢」を実現するためでした。

 クリスチャン・シオニズムの「夢」というのは、ヨーロッパのユダヤ人をパレスティナに追い出して、そこに「イスラエル」という名をつけた国を作れば、キリストが再臨するという妄想です。

ちなみに、もともとのクリスチャン・シオニズムは、キリストが再臨する前にクリスチャンにならなかったユダヤ人は、すべて滅ぼされると主張していました。ですからクリスチャン・シオニズムは、反ユダヤ主義の変異種の一つに過ぎません。

 大英帝国とその植民地政策を「霊的に」支えた教会は、クリスチャン・シオニズムの夢を実現するために、何百年間もパレスティナで生きてきたアラブ系住民の存在を無視して、ユダヤ人の入植を推し進めました。

 もちろん、パレスティナへのユダヤ人の入植は、大英帝国の軍事力によるパレスティナ人の民族浄化と、土地の略奪が、必然的に伴っていました。

 実は、今、イスラエルがガザで行っている残虐行為は、大英帝国がパレスティナ人たちにしてきたことなんです。

 たった100日間の間に、シオニズムという祭壇の上に、反ユダヤ主義と迷信的終末論の罪、さらにアングリカンの教会に巣食う白人至上主義と入植植民地主義の罪の生贄として、3万5千人を超えるパレスティナ人の血が注がれました。

 アメリカとイギリスを中心とする西洋諸国の政府と大多数の政治家たちは、シオニスト団体から資金援助を受けた、シオニスト・ゾンビです。

 しかし、政治の世界がシオニストに支配された西洋世界でも、普通の市民たちは、政府と政治家に反対して立ち上がり、イスラエルという巨悪を糾弾し、即時停戦を呼びかけています。

ところが西洋の教会は、パレスチナ人に対する明白な虐殺行為を目にしながら、沈黙を続けています。

西洋のキリスト教指導者から、イスラエルを非難する声はまったく聞こえません。西洋諸国の教会は、シオニスト国家という巨悪に屈しました。

しかし西洋諸国の市民はそれを許さず、声を上げ、立ち上がりました。これは、西洋の教会と、西洋的キリスト教に対する死亡宣告です。

私はそのように今の現実を受けとめています。私たちはもはや、西洋のキリスト教の伝統だけではやっていけない時代を迎えたのです。

アングリカンの伝統。それは反ユダヤ主義と迷信的終末論、白人至上主義と入植植民地主の罪を背負った伝統です。それはシオニスト国家を生み出し、パレスチナ人の民族浄化を可能にした伝統でもあります。

 アジアのこの場所に寄留する教会として、私たちは大きな試みの時を迎えています。

 私たちの悔い改めは、この大斎節で終わるようなものではありえません。それは、まったく新しい教会としてのあり方を見出すための、長く、困難な道のりです。

復讐、殺人、拷問、権力の追求と暴力に明け暮れてきたキリスト教に背を向け、ナザレのイエスが語った神の国のヴィジョンを生きる教会となるために、イエス・キリストの霊が私たちを導き、悔い改めにふさわしい実を結ばせてくださいますように。