大斎節第2主日 説教

2月25日(日)大斎節第2主日

創世記 17:1-7,15-16; ローマ 4:13-25; マルコ 8:31-38

今日の第1朗読と第2朗読には、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが登場します。

第1朗読の創世記17章は、かなり無理をして、アブラハムの妻サラが子どもを産んで、その子どもから多くの民族とその王が生まれることになると神がアブラハムに約束をした、という物語になっています。

 「無理をして」と言うのは、朗読箇所から省かれた8節から14節は、すべての男子に「割礼」を授けるようにという話だからです。

 そして第2朗読で読まれたローマの信徒への手紙の4章13から25節の中で、パウロは、アブラハムを「信仰によって神に正しいと認められた人」として描いています。

 ところが、ここでパウロがアブラハムと律法について語っていることは、聖書のテキストとほとんど関係がありません。

 パウロは「彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです」と書いていますが、旧約聖書の中には「無から有を呼び出される神」はいません。

 パウロはさらにこう言います。

「19 およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした。

20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。」

 ところが当のアブラハムは、創世記17章17節、今日の福音書朗読の最後の節の直後で、こう言っています。

 「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った。「百歳の男に子どもが生まれるだろうか。九十歳のサラが子どもを産めるだろうか。」

 創世記のテキストは明確に、アブラハムは、サラが子どもを生むことはないと思っていたと言っているんです。

 さらに「律法」と呼ばれる書物(創世記、出エジプト記、レビ記、申命記)の中には、「人は律法を守ることで神に正しいと認められるのか、それとも信じることによってか」といった議論は存在しません。

 ですから、パウロはここで、アブラハムを引き合いに出しながらも、旧約聖書のテキストの中には無い、まったく新しい物語を語っているのです。

 同じことがアブラハムについて語っている旧約聖書の中でも起きています。アブラハムの物語は、創世記12章26節から25章10節までの間に出てきます。

 ところが旧約聖書の中には、アブラハムという人について、一つの、首尾一貫した物語があるわけではありません。むしろ対立する多くのアブラハム物語があります。

 そして多くの物語の背後には、多くの語り手がおり、そしてそれぞれの語り手は、異なる意図をもって物語を作り上げています。

 つまり、パウロがローマの信徒への手紙の中でしていることは、旧約聖書のテキストを生み出すプロセスそのものでもあるんです。

 キリスト教は(ユダヤ教も)、権威ある書物の忠実な読解を通して生まれ、維持されてきたのではありません。

 キリスト教というのは、古い物語と向き合いながら、新しい物語を生み出す営みそのものです。

 今日の福音書朗読箇所も同じです。マルコ福音書の教会は、エルサレム神殿の崩壊を経験した教会です。

 神殿当局者を構成していた祭司長と祭司たち、サドカイ派に長老たちこそ、もっとも強力なイエス様の敵対者であり、イエス様を死刑にするために主導権を握っていたのも彼らのはずです。

 その神殿当局者が、神殿の崩壊と共に、完全に滅び去りました。

 「イエス・キリストは復活し、イエス様を滅ぼしたと思った連中が滅ぼされた!いよいよイエス様が帰ってくる!」

 この「切迫する再臨待望」に覆われた教会の中で、マルコ福音書の物語は生み出されたのです。

 世界の富を得るために命を支払うことになったら、意味はない。それは愚かしいことだ。これは一般的な知恵です。

 ですから、「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」という言葉に、イエス様独自の何かがあるわけではありません。

 「どんなに金持ちになっても、死んじゃったら意味ないじゃないか!」ということです。

 しかしマルコ福音書の著者と彼が所属する教会は、もはや命を守ろうとすることに意味はないと思っていました。なぜなら、イエス・キリストが帰ってくるからです。

 たとえ迫害の結果として命を失うことになっても、キリストが帰ってきたときには復活の命に甦る。しかし、信仰から脱落したなら、復活の命に与れない。教会の中で、そう語られていたはずです。

 「神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」という言葉にも、それが表れています。

 このように、マルコ福音書の著者も、「新しい物語」を語ることによって、「再臨を目前に控える教会」のメンバーたちを鼓舞して、終わりの時に向けて準備をさせようとしたのです。

 どの物語を受け入れ、どんな物語を生きるのか。それが私たちが人生の方向を決め、世界の進路を決めます。

 だからこそ、教会がどんな物語を生み出すかが、とても重要なんです。

 ローマ帝国と結びついた教会は、帝国主義の物語を受け入れ、ローマ皇帝を通してキリストの栄光が現れるという、帝国主義的キリスト教の物語を生み出しました。

 「敵を愛し、敵のために祈りなさい」という教えは、「愛をもって敵を滅ぼすように」という教えとして語り直されました。

 大英帝国と結びついた教会は、「イエス・キリストの再臨に先立って、ユダヤ人がパレスチナに帰り、イスラエルが復興する」という物語を生み出しました。

 その物語が大英帝国のクリスチャンを動かし、シオニスト国家イスラエルは生まれました。

 先週、ベツレヘムの福音ルーテル・クリスマス教会の牧師、ムンディール・イスハーク (Munther Isaac) が、イギリスを訪れました。

 彼はパレスティナ人クリスチャンで、破壊されたガザの様子を象徴する瓦礫の山の中に nativity scene を置いて、一躍有名になりました。

 ムンディール・イスハーク牧師は、今回の虐殺行為が始まる前から、西洋の教会とクリスチャンたちがイスラエルを支持することによって、パレスティナ人クリスチャンの迫害に加担していることを批判し続けてきました。

 彼が今回イギリスを訪れたのは、パレスティナ人クリスチャンの代表として、ガザでの停戦要求に対する支持を得るためでした。

 ところが、カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー (Justin Welby) は、ムンディール・イスハークが、元労働党党首のジェレミー・コービン (Jeremy Corbyn) と共に、パレスティナ支持のデモに参加してスピーチをしたことを理由に、イスハーク牧師との面会を拒否しました。

 ジェレミー・コービン氏は、イスラエル政府のアパルトヘイト体制に反対し続けてきました。

 そのために、シオニスト団体とその支持を受けている議員とマスメディアから、反ユダヤ主義者として攻撃され、労働党党首の座から引きずり降ろされました(現在の労働党党首はシオニスト・ゾンビです)。

 虐殺の舞台からやってきたパレスティナ人牧師との面会を拒絶するカンタベリー大主教の姿は、イングランド聖公会が大英帝国の教会であり、植民地主義を乗り越えることができていないことを、改めて私たちに見せつけることとなりました。

 核戦争と気候変動の脅威に直面する世界の中で、植民地主義とシオニズムと新自由主義に抗う物語を生み出せない教会は、塩味を失った塩として、何の役にも立たないものとして、世界から捨てられるでしょう。

イエス・キリストの霊が、神の国の平和を作るため必要な新しい物語を、私たちに与えてくれますように。