大斎節第4主日 説教

3月10日(日)大斎節第4主日

民数記 21:4-9; エフェソ 2:1-10; ヨハネ 3:14-21

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ 3:16)

 このヨハネによる福音書3章16節は、新約聖書の中でもっともよく知られ、そして、もっとも愛されてきた1節ではないかと思います。

 しかし皆さん、少し冷静になって考えてみてください。「一人息子を捧げることに示されている愛」って、一体何でしょうか?

 例えば、こんな場面を想像してみてください。

夜景の綺麗なレストランで、一人の若い男性が、お付き合いをしている女性に、指輪を差し出しながらプロポーズをしています。男性が言います。「ボクと結婚してください。」すると女性が言います。「もしあなたが私のことを本当に愛しているなら、ご両親の命を生贄として捧げて。」男性はこう応じます。「うん、わかった!これから両親を屠って、祭壇に捧げるからね!」これを聞いて女性は満足気に言います。「ありがとう!そうしてくれたら、私はあなたの愛をもう疑わないわ!」

 この一連のやりとりの中に、「愛ってそういうことだったんですね!」と言わせるような説得力があるでしょうか?

 実は、今日の福音書朗読の箇所だけではなくて、ヨハネ福音書がその全体を通してしていることは、神様の愛の大きさを示すことというよりも、「生贄がどれほど高価だったか」を示すことです。

 (先週の説教の中でも触れたように、)ヨハネ福音書は、過越の祭りという枠組みを使って、イエス・キリストを「まことの過越の小羊」として描こうとしています。

 過越の祭りの根拠となる物語は、旧約聖書の出エジプト記に記されていますが、12章に過越の小羊の話が出てきます。

 そこで言われているのは、神様がエジプトのすべての初子を殺して回ったときに、小羊を屠ってその血を戸口の鴨居に塗っておいたイスラエル人の家の初子だけは、死を免れたということです。

 ヨハネ福音書の著者は、この小羊を、イエス・キリストという「まことの過越の小羊」の影と捉えています。

 その上で、イエス・キリストが十字架の上でまことの過越の小羊として屠られたおかげで、自分たちは死を免れて、復活の命、永遠の命に与ることができるようになった。そうヨハネ福音書の著者は言っているのです。

 しかし、メシアの到来を待ち望んでいたユダヤ人の誰一人として(イエス様の弟子たちも含めて)、「メシアは永遠の命を与えるために、自分を過越の小羊として捧げる人だ」などとは思っていませんでした。

 「十字架の上で殺され、墓に葬られたナザレのイエスは、週の初めの日、日曜日の朝には、もう墓の中におらず、弟子たちの前に復活のキリストとして現れた。」

 これこそが、イエス・キリストの福音の核でした。

十字架は、見せしめのために、できるだけ苦しみを長引かせながら受刑者を死なせるための、残虐な死刑の道具であって、それそのものには、肯定すべき要素などなど何一つありません。ところが教会は、肯定すべきところのまったくない十字架に、意味づけをする必要に迫られました。

イエス様の弟子たちも、エルサレムに生まれた最初の教会のメンバーたちも、皆ユダヤ人でした。ユダヤ人にとって「十字架の上で殺されたメシア」などというのは、「生きた死人」とか「嘘つきの正直者」とか、「極悪な正義の味方」と言うのに等しいことでした。

旧約聖書の申命記には、「木にかけられた者は、神に呪われたものだ」(申命記 21:23)と書かれています。律法に照らせば、十字架の上で死ぬと言うことは、神に呪われるということです。

 しかしイエス様は十字架の上で殺されました。この事実は、ユダヤ人教会にとって、説明しようのない大問題でした。

教会のメンバーのユダヤ人たちは、イエス様が十字架の上で殺されたという事実を、どう受け止め、納得したら良いのかわかりませんでした。十字架の上で殺された人間をメシアと呼ぶなんてことは、「私はユダヤ人であることをやめました」と宣言しているようなものです。

 必然的に、十字架に架けられて殺されたナザレのイエスをキリスト、救い主と呼ぶユダヤ人の集団は、同胞のユダヤ人から軽蔑され、拒絶される運命にありました。

人間は、巨大な謎を、大きな問題を、そのままにしておくことを好みません。

ヨハネ福音書の著者も、パウロも、ユダヤ教の枠組みの中で、あるいはユダヤ人が慣れ親しんでいる様々な象徴やモチーフを使って、「ナザレのイエスが十字架の上で殺された」という事実を弁明しようとしました。しかし、ユダヤ教の枠組みを用いて展開された「弁明」が、ユダヤ人を納得させることはまったくありませんでした。

 例えば、ヨハネ福音書はバプテスマのヨハネに、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言わせます。

 しかし、罪の赦しのために捧げられる生贄と、過越の祭りのために屠られる小羊との間には、何も関係がありません。二つはまったくの別物です。

旧約聖書の律法の中で、生贄を捧げる祭司は、捧げられる生贄そのものではありません。祭司は王ではありません。王様は生贄を捧げる祭司ではありません。神殿と祭司と王と生贄とは、決して一つのものにはなりえません。

しかし、「ナザレのイエスが十字架の上で殺された」という事実を、ユダヤ教の象徴やモチーフを使って弁明しようとした人たちは、あらゆるカテゴリー・ミステイク (category mistakes) を犯します。そうして展開された「弁明」は、聞いているユダヤ人にとっては、支離滅裂な話でしかありませんでした。

 「ナザレのイエスが十字架の上で殺された」という事実を弁明しようとする試みの最大の問題点は、福音の本質から焦点がずれていったことです。

 イエス様は、「あなたが神を信じているなら、神は恵みを注いでくださる」とは言いませんでした。むしろイエス様は、神様は善人にも悪人にも恵みを注いでしまう方なんだと言いました。

 ましてやイエス様は、生贄を捧げることが、神の恵みを受ける方法だなどとは思っていませんでした。

 ところがヨハネ福音書の著者は(そして、パウロも)、弁証論という裏口を通して、イエス様にとっては意義を失っていた生贄を、再び教会の中に持ち込みました。

 結果的に、イエス様を通して示された、善人にも悪人にも恵みを注ぐ神の姿は見えにくくなり、神様が一方的に注いでくださる恵みと祝福が、「信仰」という行為に対する「報い」として語られるようになりました。

 「ナザレのイエスが十字架の上で殺された」という事実の弁明がもたらした最悪の結果は、「苦しみ」を正当化し、美化することに道を開いたということです。

 イエス様は、「苦しみ」を肯定などしませんでした。苦しみが喜ぶべきものであるなら、病を癒すことは無意味です。苦しみが肯定的なものであるなら、苦しみからの「解放」を語る必要もありません。

 私たちは、イエス様の業と、言葉と、生き方とに注目するべきです。

そして、死んで葬られたナザレのイエスを、神は甦らせ、弟子たちの前に現されたということに、死を超える希望の根拠を見出すべきです。そのために私たちは、十字架を肯定し、苦しみを肯定する聖書の伝統と手を切るべきです。

 聖書の中で肯定されている伝統を、私たちが否定するなんてことをしていいのか。そう思う方もあるかもしれません。

答えは、 ‘Yes’ です。第1朗読に出てくる、「モーセが造った青銅の蛇」は、エルサレムの神殿に存在していました。しかしユダの王であったヒゼキヤ (BCC 727–698) は、列王記下の18章の中で、これを木端微塵に破壊してしまいます(列王記下 18:4, 5)。

 神がモーセに命じて造らせ、それを仰ぎ見た者たちは生き延びたと言われる「青銅の蛇」を、ヒゼキヤは破壊したのです。それは伝統からの逸脱です。

 そして、このヒゼキヤを、列王紀下の編集者はこう評しています。「5 ユダの王の中で、ヒゼキヤのようにイスラエルの神、主を頼りとしていた者は後にも先にもいなかった。」

聖霊の息吹が、イエス様の業と、言葉と、生涯を通して示された神の姿を覆い隠す伝統から私たちを解放し、福音の喜びへと導いてくださいますように。