大斎節第5主日 説教

3月17日(日)大斎節第5主日

エレミヤ 31:31-34; ヘブライ5:5-10; ヨハネ 12:20-33

 私たちは毎週、基本的には同じ式文に基づいて聖餐式を行っています。毎週日曜日に忠実に礼拝守って、3年もすれば、式文のほぼ全体を覚えて、空で言えるようになると思います。

しかし、聖餐式のどの部分に、どんな意味づけがなされているのかということは、あえて意識しないと、知らないまま通り過ぎてしまいます。

例えば、聖書朗読の前にささげる「特祷」というお祈りが、どんな役割を担っているか、皆さん、ご存じでしょうか?

特祷は英語で ‘collect’ と呼ばれますが、その名の通り、各主日に割り当てられた「主題」を、まとめて表現しています。その主題のことを、英語では‘intention’ と言います。今日の特祷はこうでした。

「全能の神よ、み子イエス・キリストは大祭司として来られ、その血をもって至聖所に入り、ただ一たび永遠の贖いを全うされました。どうかご自身を神に献げられたキリストの血によって、わたしたちの良心を死に至る行いから清め、あなたに仕えさせてください。」

新約聖書の中で、イエス・キリストを「大祭司」として描いている書物は、たった一つしかありません。それは、今日の第2朗読で読まれた、「ヘブライ人への手紙」です。

イエス・キリストを「大祭司」として描くということは、非常に驚くべき試みです。恐らく、4つの福音書を書いた人たちは、誰一人、「大祭司なるキリスト」を受け入れなかったと思います。

 「大祭司」と訳されているのはギリシア語の ‘ἀρχιερεύς’ という言葉で、「祭司長」と訳されることもあります。

この ‘ἀρχιερεύς’ というギリシア語は、新約聖書全体で122回出てきます。イエス・キリストを「大祭司」として描く「ヘブライ人への手紙」には、17回登場します。

福音書全体では83回用いられていて、内訳はマタイ福音書に25回、マルコ福音書に22回、ルカ福音書に15回、そしてヨハネ福音書に21回となっています。福音書全体の中に、イエス・キリストを「大祭司」と呼ぶ箇所は一つもありません。

そもそも、イエス様ともっとも激しく対立していたのは、神殿当局者たちです。イエス様は、神殿中心体制を否定し、その崩壊を予告しました。

 「大祭司」、あるいは「祭司長」と呼ばれる人たちは、神殿中心体制を支える神殿当局者のトップにいる者たちです。

そして、すべての福音書は、イエス殺害の陰謀を主導していたのが祭司長・大祭司であったと語っています。

 「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。」(Mt 26:59)

 「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。」(Mt 27:20)

 「祭司長たちや律法学者たちは、どのようにイエスをだまして捕らえ、殺そうかと謀っていた。」(Mk 14:1)

 「祭司長たちや律法学者たちは、どのようにしてイエスを殺そうかと謀っていた。」(Lk 22:2)

 「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ。」(Jn 19:6)

イエス様について、すべての福音書が一致して語っていることは、それほど多くありません。しかし ‘ἀρχιερεύς’ 「大祭司」、「祭司長」が主導してイエス様を死刑にしたということに関しては、すべての福音書が一致しています。

そこから確実に言えることは、イエス様を十字架にかけるときに主導権を握っていた「大祭司」としてキリストを描くということは、どの福音書の著者にとっても受け入れ難いことだったということです。

福音の中心にあるのはナザレのイエスの業と言葉と生き方であり、それを神ご自身が承認する出来事としての復活です。

十字架は福音ではありません。十字架は人々に恐怖を与えるための残虐な見せしめと死刑の道具であり、律法によれば神の呪いです。

十字架の上で殺されたナザレのイエスをメシア、キリストと呼ぶようになったユダヤ人教会は、同胞からの嘲笑と、拒絶に直面しました。

主流派ユダヤ人と対立し、「神の民」、「まことのイスラエル」の本家本元争いをするようになったユダヤ人教会は、弁明し得ないものを弁明するプロジェクトに乗り出します。

それは、旧約聖書のモチーフを使い、ユダヤ教の枠組みの中で「十字架」を正当化する試みです。しかし、非常に厳しい評価ですが、それはまったく不毛な取り組みでした。

ユダヤ教の伝統の中心には神殿と律法がありました。しかしナザレのイエスは、律法が定める汚れと聖さとの境界線を平気で乗り越え、神殿中心体制を批判し、その崩壊を予告しました。

イエス様は十字架の上で殺され、律法によって「神に呪われた者」となったからこそ、ユダヤ人から拒絶されました。

イエス様は律法を捨て、神殿を捨て、神殿と律法の側でも、イエス様を汚れた者、神に呪われた者として捨てました。

しかし神は、律法と神殿によって、汚れた者、神に呪われた者として捨てられたナザレのイエスを、死から甦らせました。

ところが「十字架」を弁明しようとする試みはどれも、律法と神殿祭儀に帰ってゆきます。

神殿祭儀と律法の枠組みを使って「十字架」を弁護する試みというのは、飲酒運転で捕まったドライバーが、道路交通法を引き合いに出して、「飲酒運転は道路交通法違反ではない」と主張するようなものです。

神殿と律法を捨てたナザレのイエスを、あるいは神殿と律法から捨てられたナザレのイエスを、神殿祭儀を司る大祭司として描く試みは、ユダヤ人にとっては冒涜であり、異邦人にとっては無意味なことです。

イエス・キリストを「まことの過越の小羊」として描くヨハネ福音書の取り組みも、主流派のユダヤ人にはまったく受け入れられませんでした。

結果的に、ヨハネ福音書の教会は、民族的にはユダヤ人でありながら、ユダヤ人というアイデンティティーを放棄しました。

そもそも、ローマ帝国の支配下で、十字架刑に処せられ、残酷に殺された人間は、何千、何万といます。ナザレのイエスは、十字架によって殺された何千、何万人の一人に過ぎません。

ですから、十字架の死そのものには、何も特別なことはありません。特別なのは、ナザレのイエスの業と言葉と生き方を神が承認する出来事、復活です。

イエス様にとって父なる神は、掟を守らない人間に怒りを燃やしている気の短い暴君ではありませんでした。

イエス様が思い描いた神の姿は、放蕩息子 (Prodigal Son) の物語に最もよく現れています。

放蕩息子の父は、息子が自分の気持ちをなだめるための贈り物を携えて帰ってくることなど期待していません。遠くにいる息子を見つけて、駆け寄って抱きしめ、ただ生きて帰ってきたことを喜び、パーティーを開いてくれる存在です。

十字架を正当化するための、生贄の神学を捨てましょう。むしろ、病の癒し、罪人との食事、神殿当局者との対立、そして復活を喜びとする神学を生み出し、育ててゆきましょう。

 「あなたが帰って来てくれて、本当に嬉しいよ!一緒に飲んで、食べて、歌って、踊ろう!」

このナザレのイエスの福音を、この喜びの知らせを、私たち聖マーガレット教会が生き、そこに多くの人々を巻き込んで行くことができますように。