復活前主日 説教

3月24日(日)復活前主日 説教

マルコ 15:1-39

 先週の水曜日、小学校の卒業式がありました。私はチャプレンとして卒業式と、その後の謝恩会に参加しました。

 謝恩会の最後に閉会の祈りをすることになっていたので、マイク・スタンドが置いてある会場の前に出て行きました。そこで私は、お祈りの前に、卒業生に向かってこのように話しました。

「皆さんにお願いがあります。小学校を卒業しても、お祈りをするのをやめないでください。

私たちチャプレンは、小学校だけではなくて、中学・高校の礼拝でも司式をします。小学校の礼拝では、みんなが大きな声で讃美して、大きな声でお祈りしています。

ところが、小学校の礼拝の後、中学校で礼拝をする日になると、「みんな具合が悪いのかな?」と思うくらいに、お祈りの声が小さくなります。そして、高校で礼拝をしているときには、「全員寝ているのかな?」と思うくらい、声が聞こえなくなります。

 そのたんびに、私はこう思うんです。「小学校の卒業生たちは、みんなどこに行ってしまったんだ?!」って。」

 この私の「お願い」を聞いた卒業生たちは大笑いをしていました。

 中学校から入ってくる生徒たちも、学校説明会や入試の面接で、学校の一日は礼拝で始まることを知らされます。それがわかっていて、その学校を選んで入ってくるわけです。

 それでも祈りの声は上がらず、それまで大きな声で祈っていた小学校から上がってきた生徒たちも、声を出さない方向に流されていきます。

 「たとえ誰も声を上げなくても、自分は声を出して祈る!」という生徒がいたらカッコいいのにな~、と思っているんですが、これまでのところはまだ、そういう生徒に出会っていません。

 世の中に流されない人間となることを教育目標に掲げてはいるけれども、そのスタートで躓いている感じがしないでもありません。

 そんなわけで、私は中高の礼拝が終わる度に、個人対する「集団」の影響力、同調圧力について考えさせられます。

 今日の福音書朗読の箇所は、集団の同調圧力が、人間をどれほど凶悪にするかを示す一つのモデルケースです。

 「受難の主日」、あるいは「棕櫚の主日」と呼ばれるこの主日の礼拝は、イエス様のエルサレム入城の場面を再現する「棕櫚の典礼」と、「受難の典礼」の二階建構造として設計されています。

 私たちは、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と熱狂のうちに叫び、その一週間後には「十字架につけろ!」と叫ぶ群衆と一つになります。

 イエス様を十字架につけるとき、民衆の上に働いた闇の力を群集心理と呼ぶにしろ、同調圧力と呼ぶにしろ、同じ闇の力は、今でも集団の上に働き続けています。

 大祭司や長老や律法学者たちの扇動に乗り、「十字架につけろ!」と叫んで、イエス様を十字架にかけるために協力した民衆は、当時のユダヤ人社会の8割から9割を構成する「普通の人々」です。

 しかし「普通の人」が、いとも簡単に極悪人になれる。そこにこそ、人間という存在の深い闇が潜んでいます。

 もっとも恐ろしいことは、極悪人となった普通の人には、善悪の判断がまったく働かなくなることです。

 イエス様を前に、「十字架につけろ!」と叫んでいる民衆に、良心の呵責はありません。自分たちが悪に加担している自覚はゼロです。

 今現在も、8割のロシア国民がプーチンのウクライナ侵攻を支持し、8割の「イスラエル人」がパレスチナ人の虐殺と民族浄化を支持しています。

 8割のロシア国民は、ロシア兵がウクライナの市民や子どもを殺害することを喜んでいます。「イスラエル人」の8割が、地獄のようなガザの有様を見て喜んでいます。

敵と見做される者たち、ロシア人にとってのウクライナ人、「イスラエル人」にとってのパレスチナ人は、「人間ではない存在」、「野獣と変わらぬ存在」に格下げされます。そして、自国のサッカー・チームやオリンピック代表選手の勝利を喜ぶのと同じ様に、敵が殺されることを喜びます。

 近代以降、「普通の人」を瞬間的に「極悪人」へと転落させるための下地作りは、同じパターンで行われます。

 学校の教員が民族主義を称揚し、子どもたちは自民族中心主義のイデオロギーを身につけます。

 民族主義というイデオロギーによって洗脳された人たちは、空気を吸うように、そして嬉々として、御用扇動家たちのプロパガンダを受け入れます。

 学校教育とテレビと新聞があれば「良い国民」でいられると思っている人たちは、巨悪が発動した時には、「敵を殺せ!」、「戦争万歳!」と叫びます。

 要は、私たちは誰もが、容易に、一瞬にして、イエスを十字架につけろと叫ぶ群衆に転落するのです。

 では、「普通の人」の私たちは、どうすれば、巨悪に加担する群衆に転落することを免れることができるのでしょうか?

 それは、ナザレのイエスという「人」に倣って生き、この「人」と共に旅をすることによってです。

 神は、ナザレのイエスを通して、すべての人を「私」の隣人とされました。

 ナザレのイエスに従って生きるなら、私たちはもはや、国籍によって、民族によって、性別によって、宗教によって、社会的地位によって、「この人は私の隣人ではない」と言うことができなくなります。

 そして、ナザレのイエスと共に旅をするということは、「罪人として生きる」ということであり、すべての人を「罪人」として見るということです。

 「罪人」の中に、絶対的な正しさはありません。「罪人」である限り、自分の中に疑いの余地を残しておかなければなりません。

 自分が「罪人」であるなら、自分の「正しさ」を振りかざして、他の罪人を裁くことができなくなります。

 自分が「罪人」であるからこそ、自分が出会う他の「罪人」も、「憐れみ」の対象、「慈しみ」の対象となります。

 こうして、「罪人」である「私」の出会う他の「罪人」は、「罪人である私」の「隣人」となります。

 「慈しみ」と「憐れみ」の心が働かないところに、「隣人」は生まれません。

 教会は、国民教育と御用扇動家のプロパガンダから、私たちが解放される場でなくてはなりません。

罪人としてナザレのイエスの名によって集まり、祈りと讃美をささげる礼拝という営みが、私たち一人ひとりを、集団の同調圧力から解放する力となりますように。