










4月7日(日)復活節第2主日(B年)
使徒 4:32-35; Iヨハネ 1:1-2:2; ヨハネ 20:19-31
「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。」
マスターが逮捕されるときにとっとと逃げて、恐怖に怯えて締め切った家の中に隠れている弟子たち。非常にカッコ悪くて、みっともない姿です。
ここには一つの真実が明確に現れています。それは、イエス様の弟子たちの誰一人、イエス様が甦るとは思っていなかったということです。
ですから、弟子の誰一人、「イエス様が復活したかもしれないから、墓を覗きに行ってみよう」などとは言いませんでした。
しかし、甦ったイエス様が出てきてしまったので、自分たちの期待や願いと全く無関係に、弟子たちは復活のキリストの証人、証し人にされてしまいました。
理由は書かれていませんが、11人の弟子の内、トマスだけが、他の10人とは別行動を取っていたようです。
他の10人と合流した時、トマスはおかしな話を聞かされることになりました。十字架で死んだイエス様が甦って、自分たちの前に現れた、というのです。もちろん、そんなばかげた話をトマスが信じるはずはありません。彼は10人に向かって、こう言い返します。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」これは極めてまともな反応です。
世界は悪人に溢れています。イエス様を十字架にかけて殺した世界と同じように、この世の政治や経済は常に、虚の上に立っています。
悪人に溢れた世界に生きている以上、正しく疑い、evidence に基づいて、証拠に基づいて「信じる」スキルを身につけることが必要不可欠です。
トマスのように疑り深い私は、高校1年のときにクリスチャンになりました。
クリスチャンとして歩み始めてから、私はず~っと、自分の信仰を疑い続けてきました。自分が受けてきた神についての教え、イエス・キリストについての教えを疑い、批判し続けてきました。
信仰に対する批判と疑いが無くなったことは一度もありません。それでも私は、今も神を信じています。復活のキリストを信じています。神はいつも、私の知識と疑いを超えて、その向こう側に現れます。
私の疑いは、神を消し去ることができません。むしろ私の疑いの果てに、神は私に疑うことを可能にしてくれる根拠として現れます。
そうして私は、私の疑いによって消し去ることのできない神の働きの中で、神が造られた世界の中で、恵みによって生かされていることを認めざるを得なくなります。
そしてナザレのイエスの言葉と業と彼の生き方の中に、弟子たちに対する復活のキリストの現れの中に、神の力と働きの現れを見ます。
新しい命に起こされ、トマスの前に現れたイエス・キリストは、「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言います。
この言葉は、本当はトマスにではなくて、復活のキリストを見ずに信じて弟子となる、すべての人に向けて語られている言葉です。
ヨハネ福音書が書かれた時代には、復活のキリストを直接見た人は、もう一人も残っていなかったでしょう。
だからこそヨハネ福音書の著者は、復活の主を見なくても信じる者の方が幸いだと言って、見ずに信じて弟子となった人たちを励ましているのです。
私たちは、復活のキリストが弟子たちに現れてから、ほぼ2千年後の世界に生きています。私たちが生きているこの時代は、復活のキリストが姿を現すことの無い時代です。
もし、「先週の土曜日、復活のキリストと一緒に晩御飯食べてきた」という人がいたら、できるだけ早く、良い病院で治療を受けられるようにしなくてはなりません。
しかし神様は、復活のキリストを見ることができない時代の私たちに、大きな使命と喜びを与えられました。
それはイエス・キリストの息吹を受けて、新しい命を生きる私たち自身が、イエス・キリストの現れになるということです。
イエス・キリストの息吹を受けて、新しい命を生きる私たちは、私たちが出会う人たちに対する、イエス・キリストの現れになれるんです。私たちを通して、人々は、イエス様に出会うことができるんです。
そして、私たちを通してキリストに出会う人たちも、復活のキリストの息吹を受けて、新しい命を生き、復活のキリストの現れとなることができます。
そのようにして、復活のキリストが直接に現れなくても、キリストの息吹を受け、新しい命を生きる、キリストの弟子たちが生まれ続けます。
先週、イースターの日曜日には8時の礼拝に45名、11時には約200名の方々と共に、イエス・キリストが死から新たな命へと移されたことを祝い、喜びました。
そして、礼拝後に行われた初めての試み、イースター・フェスティバルも、素晴らしい時となりました。
日曜学校のお父さんお母さんたちもご奉仕くださり、フェスティバルに来た方々を迎えてくださいました。沢山の子どもたちも、礼拝から来てくれました。礼拝が終わる前から20人くらいの方々が並んで、イースター・フェスティバルの始まりを待っていてくださいました。
初のイースター・フェスティバルは大盛況で、食べ物は1時間ちょっとですべて売り切れてしまいました。
イースターが教会のお祭りだということを知ってもらいたい。イースターを、内輪で盛り上がるだけではなくて、新しい方たちを教会に招く機会にしたい。
そのような思いから生まれたイースター・フェスティバルは、人々がイエス様と出会うきっかけ作りとして、とても素晴らしいものだったと思います。
イエス様がいるところにはパーティーがありました。もし教会が、キリストの息吹を受けて、新しい命を生きる祝宴の共同体となれたなら、イエス・キリストに出会う人々が必ず起こされるはずです。
願わくは、復活のキリストの息吹が、私たち聖マーガレット教会を、人々がイエス様と出会う祝宴の共同体として成長させてくださいますように。
