復活節第3主日 説教

4月14日(日)復活節第3主日

使徒 3:12-19; Iヨハネ 3:1-7; ルカ 24:36b-48

 今日の第一朗読は使徒言行録の3章から、福音書朗読はルカ福音書の24章から取られていますが、ルカ福音書と使徒言行録の著者は同一人物です。

 便宜上、ルカ福音書と使徒言行録の著者を「ルカ」と呼びますが、「ルカ」は新約聖書に収められた書物を書いた人たちの中で、最も創造的想像力 (creative imagination) に富んだ人であると同時に、最も狡猾で計算高い人でもあります。

 その狡猾さと計算高さは、「復活の証人」の扱い方の中にも表れています。

 私はこの説教の中で、「ルカ」による「復活の証人」の描写に関して、一つの否定的なことと、一つの肯定的なことをお話ししたいと思います。

 まず、否定的な面からお話をします。「復活の最初の証人」は、間違いなく女性たちです。

 十字架の上で死んで葬られたナザレのイエスが、新たな命へと移される場面を目撃した人はいないので、厳密に言うと、「復活の証人」というのは存在しません。

 それは私たちが、母胎から赤ちゃんの出てくる場面を目撃することができても、精子と卵子の結合によって生じた受精卵が、細胞分裂を繰り返して胎児となり、成長するプロセスを見ていないのと同じようなことだと言えるかもしれません。

 「復活の証人」と呼ばれる人たちは、すでに新たな命を生きているイエス様の姿を目撃した人たちです。

 週の初めの日の明け方、イエス様が葬られた墓に向かった女性たちの名前は、4つの福音書の中で若干異なっています。しかし、そのすべてにマグダラのマリアの名前があります。

マルコ福音書の最も古い写本は、女性たちが空の墓を発見するところで終わっていて、新しい命に移されたイエス様が、弟子たちに直接姿を現す場面はありません。しかしマタイ福音書とヨハネ福音書では、マグダラのマリアは最初の復活の証人として描かれています。

 ですから1世紀から2世紀前半の教会の中で、最初の復活の証人がマグダラのマリアであったことは、ほぼ普遍的に知られていたと言えると思います。

 ところが「ルカ」は巧みに、女性たちを「復活の証人」から外します。使徒言行録の冒頭、1章3節で「ルカ」はまずこう宣言します。

 「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒 1:3)

この後には、イスカリオテのユダがいなくなって、12使徒が11人になってしまったので、欠員を埋めるために「新たな使徒」を選ぶエピソードがあります。その中で「ルカ」は、ペトロにこう言わせています。

「ですから、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者のうちの誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒 1:21-22)

 こうして「ルカ」は、復活の証人を「使徒たち」に限定します。しかし、繰り返しになりますが、最初の復活の証人は、間違いなく女性たちです。最初の復活の証人として、普遍的に名前を知られていたのは、マグダラのマリアです。

 復活の証人の女性たちは、ただ「空の墓」を発見しただけではありません。彼女たちこそ、新しい命に移されたイエス様の姿を、最初に見た人たちです。

「空の墓」そのものは、「神がナザレのイエスを死から新たな命へと起こされた」ことの証拠にはなりません。

「空である」ことは、「そこに置いたはずのものがそこにない」、「そこにあるはずのものがそこにない」とうだけのことであって、それ以上の意味はありません。

空の墓が「イエス・キリストの復活」の意味を解き明かすことはできません。むしろ、神によって死から新しい命へと起こされたナザレのイエスが、弟子たちの前に現れ、彼らに語り、彼らと共に食事をし、生活を共にしたことが、空の墓の意味を解き明かすのです。

 空の墓に意味を与えるのは、新たな命に移されたイエス・キリストの姿を見た人たちなのであって、復活の証人がいなければ、空の墓に意味はありません。

 そして12使徒たちを初めとする男の弟子たちは、女性の復活の証人たちの証言のおかげで、彼女たちの導きによって、復活のキリストの姿を見ることができたのです。

 12使徒を初めとする男の弟子たちは、女性の復活の証人たちに従属する、二次的な復活の証人に過ぎません。

 ところが「ルカ」は、男の「使徒たち」だけを公式な復活の証人と位置づけることによって、第一の復活の証人であるマグダラのマリアと女性たちを、男のリーダーシップの下に従属させ、沈黙させます。

最初の証人は女性たちなのに、ルカ福音書の中には、女性たちが一人称で復活の主の現れについて語る場面は一切ありません。マグダラのマリアが、復活の主の現れについて一人称で語っている箇所も、新約聖書の中に一つとしてありません。

 復活の最初の証人であり、イエス運動の創始者とすら言える女性たちを黙らせ、男の支配の下に従属させた。それはイエス様が承認し、神が承認したことを、人間が否定したということです。

 これがその後の教会の歴史に、どれほどの影響を与えたのか、私たちは慎重に見極める必要があります。

 私は、教会で女性たちの声が聞かれ、リーダーシップに女性たちがいたら、教会がここまで暴力的になることはなかったのではないかと思っています。

 しかし、今日の福音書朗読の中で復活のキリストの証人に対して語られる言葉の中には、極めて肯定的な、大切なこともあります。

それは「私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ」という言葉です。

ここで「ルカ」は、「復活の命」、「新しい命」を、「精神」や「「魂」の次元に矮小化することに徹底的に抵抗し、「新しい命」の身体性を強調しています。この点は41節から43節のイエス様の言葉の中で、再度強調されます。

 「イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」

 ここで「ルカ」が、「復活の命」や「永遠の命を」、魂や精神の次元に還元するグノーシス的二元論を退けようとしていることは明らかです。

 ところが皮肉なことに、キリスト教の教義も実践も、圧倒的に身体性を否定する方向に、「肉」を嫌悪する方向に流れます。

 キリスト教はその歴史の大部分で、身体性を否定し、肉の喜び否定し、肉欲から解放されて「魂の救いを得る」ことを「救い」として語ってきました。

 キリスト教が身体の価値を否定する方向に走った副作用は、「魂」が滅びるよりは肉体が滅びる方がマシだという二元論を振り回して、「悪人」や「神の敵」とみなされた人間の身体を破壊する行為を、絶対的な悪と見做さなくなったことです。

 こうして、長崎への原爆投下作戦を祝福した従軍チャプレンの George Zebelka が言うところの、「1700年に渡って、主の名によって、復讐、殺人、拷問、権力の追求と暴力とに明け暮れてきたキリスト教」が生まれたわけです。

 復活のキリストの現れは、ナザレのイエスが肯定したものを神が肯定したということです。

 パリピーであったナザレのイエスが、禁欲主義者であったはずはありません。そのナザレのイエスの生き方を、神ご自身が承認したのです。

ナザレのイエスが肯定し、神ご自身が肯定したものを取り戻すことによって、聖マーガレット教会が、神の国の平和と喜びを世に証する群れとなることができますように。