復活節第4主日 説教

4月21日(日)復活節第4主日

使徒 4:5-12; Iヨハネ 3:16-24; ヨハネ 10:11-18

 旧約聖書の中で、「羊飼い」や「牧者」と言う言葉は、しばしば政治的な文脈の中で使われます。

王や祭司をはじめとする指導者たち、あるいは支配者が「羊飼い」「牧者」と呼ばれ、支配される側の民は、「群れ」とか「羊」と呼ばれます。そして、民を支配することが、民を「牧する」と表現されることもしばしばあります。

愚かな牧者、不正な羊飼いたちによって「羊」あるいは「群れ」としての民衆が苦しめられ、虐げられ、ついに社会そのものが崩壊する様は、「群れが散らされる」「羊が散らされる」と表現されます。

預言者は、自分自身の声と神の声を重ねて、神に選ばれ神の御心を行なうと見なした支配者を、「私の心に適う牧者」(エレミヤ 3:15)と呼びます。

 驚くべきことに、イザヤ書44章28節では、ペルシア王のキュロスについて、「彼は私の牧者、私の望みをすべて実現する」と言われています。

ヨハネ福音書の著者、あるいは編集者「ヨハネ」は、旧約聖書の預言者の伝統に沿って、イエス様を「良い羊飼い」と呼び、ヨハネ福音書の背後にある共同体のメンバーを「羊」と呼んでいるのです。

 「ヨハネ」は、自分たちと敵対するユダヤ人グループ、ファリサイ派のユダヤ人を、羊の持ち主ではない「雇い人」の羊飼いとして描いています。

ここで「ヨハネ」は、預言書の中で語られる、羊を弱り果てさせ、社会を破滅させ群れを散らす、悪しき「牧者」と、ファリサイ派とを重ねています。

 ヨハネ福音書全体を貫く最も重要な戦略は、イエス・キリストを「まことの過越の小羊」として描くことですが、今日の箇所では、教会のメンバーを羊として、イエス様を「羊に命を与えるために命を差し出す羊飼い」として描いています。

 その上で、今はまだ「この囲い」の中に入っていない羊さえも、「この囲い」の中に入ることによって命を得られるのだと主張します。

 恐らく、「この囲いに入っていないほかの羊」というのは、私たち、非ユダヤ人の教会のメンバーを指しているのでしょう。

 今日の福音書朗読の最も重要なポイントは、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストという「良い羊飼い」の「群れ」に加えられたなら、人種も民族も超えて「一つの群れ」とされ、「この羊飼いによって、まことの命を得る」というところです。

 私たちは皆、命を与える良い羊飼いのもとに導かれて、この羊飼いの「群れ」に属する者となりました。それは、私たち自身も、命を与える「良い羊飼い」に従って、命を与える道を歩む者とされたということです。

 命を与える道の具体的姿を、今日の第2朗読の第1ヨハネの手紙は、このように表しています。

 「16 御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。17 世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐れみの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょう。18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

ところが、命を与える道を歩むために召されたはずの教会が、その歴史の中で、どれほど多くの命を破壊してきたことでしょうか。

 昨年の11月27日、ガザの悲劇が始まって50日後、聖マーガレット教会でガザ支援のために、緊急上映会を行いました。

 午後2時からは「ガーダ:パレスチナの詩」、夜の7時からは「ぼくたちは見た:ガザ・サムニ家の子どもたち」という、2本のドキュメンタリー映画を上映しました。

上映会で見た最初の映画、「ガーダ:パレスチナの詩」の中に、子どもたちが学校で、マイクを前に歌っている場面がありました。

 そこで子どもたちが歌っていた歌の中に、「世界は私たちのことを忘れてしまった」という1節がありました。

「世界は私たちのことを忘れてしまった。」その言葉が今も、私の心の中で響き続けています。

 民族主義と帝国主義と一体化した西洋の教会は、命を与える良い羊飼いに従って、命を与える道を歩むことを放棄しました。

 民族主義の高まりと共に激化した西洋世界の反ユダヤ主義は、西洋世界が生み出したものであり、ホロコーストの責任は西洋世界にあります。

 ところが、大英帝国を中心とする西洋世界は、ホロコーストの代償を自分たちで支払わず、パレスティナ人をscapegoat(スケープ・ゴート)にしました。

 パレスティナの委任統治を担っていた大英帝国は、ヨーロッパのユダヤ人をパレスティナに移住させ、彼らを武装させ、軍事訓練まで提供します。

 他方、ユダヤ人の大量入植に反対するパレスティナ人の側は、武器を没収され、大英帝国の軍隊と重武装したユダヤ人自警団に鎮圧されます。

 1948年のイスラエル建国の直前には、パレスティナの500以上の村と12の街が破壊され、全パレスチナ住民の3分の2にあたる75万人もの人々が、家と土地を奪われて難民となりました。

 そして75年間もの間、アメリカとイギリスを中心とする西洋諸国は、経済力を利用して国際機関、教育機関、メディアをコントロールし、世界にパレスティナの苦難を忘れさせることに成功してきました。

 「世界は私たちのことを忘れてしまった」という子どもたちの歌の中に、私たちが受け止めるべき、とてつもなく重大な教訓があります。

 それはガザの虐殺は、「悪しき羊飼い」によって苦しめられている人たちのことを、私たちが忘れたために起こったということです。

 パレスティナ問題の文脈で言えば、「悪しき羊飼い」はイギリスとアメリカを中心とする西洋諸国とイスラエル政府です。

 実はウクライナの戦争も、アメリカの帝国主義が引き起こした戦争です。

 ウクライナの戦争であれ、ガザの虐殺であれ、巨大な悪に直面したとき、私たちの中にはある種の防衛反応と結びついた誘惑が働きます。

 それは、「こんな巨大な悪に対して自分にできることは何もないんだから、どうにもならない大きな問題は忘れて、日常に戻ろう」という誘惑です。

 しかし、それこそが「悪しき羊飼い」の願っていることなんです。

「悪しき羊飼い」がもっとも嫌うことは、自分たちの悪事が晒されることです。

「悪しき羊飼い」によって苦しめられている人たちのことを覚え続け、「悪しき羊飼い」の悪事を語り続けることが、今現在起こっている悪をいつか終わらせ、新たな巨悪を未然に防ぐために、私たちができる一番効果的で、一番重要で、一番簡単なことなんです。

イギリスとアメリカが最後まで支え続けた南アフリカのアパルトヘイト体制が終焉を迎えたのは、「悪しき羊飼い」によって苦しめられている人たちのことを、忘れない人たちがいたからです。「悪しき羊飼い」の悪事を晒し、語り続ける人たちがいたからです。

「自分にできることはない」と言って、悪しき羊飼いに苦しめられている人のことを忘れないでください。

 「今起きていることを止められない」からと言って、悪しき羊飼いの悪事について語るのを止めないでください。

 命を与える良き羊飼いに倣って、命を与える道を歩むことができるようにと祈りながら、苦しめられている人を覚え、悪しき羊飼いの悪事について語り続けてください。すべてはそこからです。

 スタバでコーヒを飲んでいる場合じゃありません。ZARAの服なんか着ている場合じゃありません。それらの企業が、イスラエルの悪事を支えているんです。

「命を与える道」は、私たちの日常の中にあります。苦しめられている人を忘れず、悪しき羊飼いの悪事について語り続け、「命を与える道」を歩む者でいられるように、共に祈りましょう。