













4月28日(日)復活節第5主日
使徒 8:26-40; Iヨハネ 4:7-21; ヨハネ 15:1-8
今日は4月最後の日曜日です。ついこの間、年が明けて2024年になったばかりのような気がしますが、すでに2024年の1/3が終わろうとしています。
そして、この4月で、私がマーガレット教会の牧師と学校のチャプレンを兼任するようになって3年目に入りました。与えられた2つの役割を十分に果たしているとは言い難いところもあり、教会に対しても、学校に対しても、不十分で申し訳ないと思うことがしばしばあります。
しかし、教会の牧師をしつつ、学校のチャプレンを務めることによって、教会と学校との間に建設的な関係を築くことができるかもしれないとも感じています。
それができるのは、私が二足のワラジを履くことを許して、受け止めてくださっている聖マーガレット教会の皆さんのおかげです。心から感謝しています。
先週の金曜日、学校の保護者の方を対象としたキリスト教入門講座の第1回目を行いました。初回の話を終えた後、何人かの保護者の方が声をかけてくださったのですが、3年生の保護者の方からこんな話がありました。
学校の礼拝での話を聞いてのことなのかわからないけれども、娘さんが「人は何のために生まれて、何のために生きるんだろう」というようなことを話すようになったと言うのです。
私はその話を聞いて、小学校3年生のその女の子も、神様と向き合い、自分の命と向き合っているんだなと思いました。
人は何のために生まれ、何のために生きるのか。この深淵な問いに対する、出来合いの答えなどありはしないでしょう。でも、今日の福音書朗読で読まれた箇所には、人が何のために生まれ、何のために生きるのかという問いに対する、一つの答えが示されていると言えるかもしれません。
旧約聖書の預言書の中では、神の選びの民としてのイスラエルが、「ぶどう畑」、「ブドウの木」、あるいは「ぶどうの実」として語られることがあります。
1箇所だけ例を挙げますと、エレミヤ書2章21節にはこのようにあります。
「21 あなたを確かに純粋な良いぶどうとして植えたのは、この私だ。それなのに、私にとって質の悪い、異国のぶどうに変わり果ててしまうとは、どういうことか。」
ここではイスラエルの民が「ぶどう」として語られています。
今朝の福音書朗読で読まれたヨハネ15章1節は、父なる神を「農夫」として、よりより正確には ‘vine dresser’ と呼ばれるぶどう栽培の専門家として、そしてイエス・キリストのことを、父なる神によって植えられた「まことのぶどうの木」として描いています。そしてイエス運動の共同体に連なるメンバーたちは、ぶどうの木の蔓(つる)として語られています。
福音書の編集者はここで、クリスチャンたちに向かって、脅迫に近い2つの警告を発しています。
まず6節は、「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストに繋がっていない者たちは、集められて火の中に放り込まれて焼かれることになると言います。これは恐らく、イエス様をメシアとして受け入れなかったファリサイ派の人たちに対する非難の言葉でしょう。
しかし警告の言葉はイエス運動のコミュニティーに属する人々に対しても発せられます。
2節ではこのように言われます。「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」
ここでは、イエス・キリストを受け入れて教会のメンバーになっても、実を結ばないヤツは刈り込まれて、イエス様を救い主として受け入れなかった連中と同じ運命を辿るんだ、ということが暗示されています。
私は、イエス様を信じない人たちは何一つ神様に喜ばれることができないとも、教会の外にいる人たちは救われないとも思っていません。
「私はイエス・キリストが私の罪のために死んでくださり、私を地獄の滅びから救ってくださったことを信じています」とか、「聖書は誤りなき神の言葉で、それに従って生きることが救いの道です」と言う「敬虔なクリスチャン」たちが、とんでもない残虐行為に加担し、「悪しき実」を結んでいる例も、嫌というほど知っています。
ですから私は、「実を結ばないつるとして刈り込まれ、火の中に放り込まれて滅ぼされないようにしましょう。イエス様に留まって、善き実を結び、救われましょう」とは言いたくありません。
確かに、つるはぶどうの木から切り離されたら、実を結ぶことはできません。けれども、視点を変えてみれば、ぶどうの木はつるがなければ実を結ぶことができないとも言えます。
ぶどうの木が生きてさえいれば、毎年、新しいつるが出てきます。けれども、新しく出てくるつるをすべて切り落としたら、ぶどうの木はぶどうを実らせることができません。ぶどうの木も、ぶどうを実らせるためには、つるを必要としているのです。
さらに言えば、イエス・キリストというまことのぶどうの木を植えられた神も、実りを得るために、つるを、人を必要としています。
私はここに、「人は何のために生まれ、何のために生きるんだろう」という問いに対する、ひとつの答えがあると思うのです。
神様は、ご自分が書き始めた「天地創造」という物語の中で、どういうわけか、私たち人間を、物語の共同執筆者として選ばれました。
神様は、「天地創造」という物語の中で、 dictator、独裁者として振る舞い、直接的に物語の進路を決める道を放棄して、その代わりに、媒介を通して、協力者と共に、物語を作り上げていく道を選ばれました。
神様は、そのストーリの中に命が現れ、命が満ち溢れ、最終章の最後の言葉が死ではなく、永遠の命で締め括られる物語を完成させるために、ぶどうのつるである私たち人間を必要としてくださるのです。
私はそこに、「私が生まれ、生かされ、希望の内に死んでいく」意味を見出します。
半年を超えて今なお続く、ガザに対するイスラエルの虐殺行為を前に、教会、特に西洋世界の教会は、まったく良い実を結べていません。
今、「天地創造」の物語の共同執筆者として、よい実を結んでいるのは、教会の中ではその声がほとんど聞かれない「Z世代」の人々です。
「Z世代」というのは、1996年から2010年の間に生まれた人々のことで、英語の ‘Generation Z’ あるいはその短縮形の ‘Gen Z’ という言葉から来ています。
この世代の人々のアイデンティティーの形成にとって、大きな共通要因となっているのは、インターネットをはじめとするデジタル・テクノロジー、気候変動の脅威、経済崩壊、そして新型コロナのパンデミックです。
まず、アメリカの「Z世代」が、パレスチナとの連帯を表明して立ち上がりました。
彼らは大学当局に対して、イスラエルとの関係を断つように、大学の資金をシオニスト企業にも、軍事産業にも投資しないよう求めて、大規模な抗議活動を展開し始めました。先週末からは、体制による運動の鎮圧が始まり、連日、多くの逮捕者が出ています。
それにも関わらず、「Z世代」によって始まった正義を求める運動は、アメリカ全土に拡大し、さらに世界の大学にまで広がりつつあります。
私たち教会は、「Z世代」の若者たちがもたらしている良い実りを、どのように受け止め、彼らの声に、どのように耳を傾けていくのでしょうか。
まことのぶどうの木に留まり、もたらすべき「ゆたかな実り」、「よき実」とは何か、私たちは「Z世代」から学ぶべきなのではないでしょうか。
実りをもたらさない不要なつるとして枯れ果て、世界から、そして神様から捨てられることのないように、よき実をもたらすコミュニティーでいられるように、聖マーガレット教会はZ世代の声を聞き、変わっていくことのできる教会でありたいと思います。
