












5月5日(日)復活節第6主日
使徒 10:44-48; 詩 98; Iヨハネ 5:1-6; ヨハネ 15:9-17
唐突ですが、皆さんはマンガをお読みになるでしょうか?私自身は、今はもうほとんどマンガを読まなくなりました。でも、以前は、マンガも沢山読みました。
私が大好きだったマンガの1つに、『Masterキートン』という作品があります。
主人公の平賀=キートン・太一は、日本人の父とイギリス人の母の間に生まれた、English Japaneseで、日本語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語を操る polyglot です。
彼は、Oxford大学出身の考古学者で、大学の常勤職に就きたいと思っているんですが、日本の学閥に阻まれ、学者としての道はなかなか開けません。実はキートンには、元SAS (Special Air Service: 特殊空挺部隊) のサバイバル教官というもう一つの顔があります。
多言語使いでどんな危険な場所でも生き延びるスキルを備えている彼は、大手保険会社ロイズの下請け「保険調査員」(実際には身元調査をする探偵)として重宝され、次々と仕事が舞い込みます。
第何巻の、第何話だったかも思い出せないんですが、チャウシェスク独裁政権下のルーマニアから亡命して売れっ子作家となったある人物が、キートンに、父親探しを依頼する話があります。
依頼主のフィリップは、政府の金を持ち出して行方不明になった父親の無実を信じ、それを証明して父親と再会する息子を主人公とした小説を書いて、イギリスで「推理作家協会賞」を受賞します(もちろん物語の中での話です)。そして、フィリップの父親自身も、チャウシェスクの秘密資金を持ち逃げしたことを疑われ、チャウシェスク政権の残党に命を狙われています。
この父親は、売れっ子作家となった息子が結婚するという雑誌の記事を目にして、こっそりの結婚式に参列するために、イギリスのある街を訪れています。ところがそこで、チャウシェスクの残党に命を狙われ、キートンに助けられます。
父親を探すよう依頼を受けたというキートンの話を聞いた彼は、息子のフィリップが自分をモデルに小説を書いて、自分に会いたがっているんだと思って、息子の結婚式会場に急いで向かおうとします。
ところがそのとき、キートンから予想外の言葉を聞くことになります。「息子さんは、あなたに会いたいと思っていません。」そう言われるのです。
フィリップは自分の無実を信じているはずだと言う父親に対して、キートンはフィリップから聞いた言葉を、そのまま伝えます。
「作家は現実がつらく暗いからこそ、想像力を武器に希望のある物語を書くものだ。」
先週、説教準備をしなくちゃと思って、福音書朗読の箇所を読んで、そこに書かれている言葉を思い巡らせてみても、語るべき言葉が何も出てきませんでした。
その代わりに、私の頭の中を駆け巡ったのが、『Masterキートン』の中の、このフィリップの言葉だったんです。
「作家は現実がつらく暗いからこそ、想像力を武器に希望のある物語を書くものだ。」
高校1年の10月に洗礼を受けて、これまで約37年間、クリスチャンとして生きてきました。これまでも色んなことがあって、沢山つまずきながら、ここまで歩んできました。
でも、今ほど、世界の教会に対して失望し、教会の教義と伝統と歴史に対して、嫌悪に近い怒りを感じたことはありませんでした。
今日の福音書朗読で語られていることに、難しいことは何もありません。
今日の箇所はひたすら、イエス・キリストの「戒め、命令 (ἐντολή)」(3回)に従って生きるようにと言います。ここで言われているキリストの「戒め、命令」が何かは、誰でもわかります。
9節から17節のたった9節の中には、「愛する」(ἀγαπάω)という動詞が5回も出てきます。「愛」(ἀγάπη)という名詞も4回登場します。
イエス・キリストの命令は互いに愛することであり、互いに愛し合うなら、そこに「喜び (χαρά)」が満ち溢れるんだ。 これがイエス・キリストの教えです、なんてシンプルで、なんと素晴らしい教えでしょうか!
もし教会が、歴史の中でこの命令に従って歩んできたのなら、私たちが生きている世界は、ずっと平和で、ずっと喜びに満ちた世界だったことでしょう。
ところが現実に教会が生み出したものは、暴力による支配、今に至るまで続く植民地主義です。
イエス・キリストの掟とは正反対に、教会は敵と見なした者を人とも見なさず、抑圧し、自分たちの利益のために搾取し、殺すことさえ厭いませんでした。
西洋のキリスト教世界がヨーロッパのユダヤ人相手に行ったことは、「自分の気に入った女性を自由にレイプできる」ことを謳う「買春ツアー」のようなものです。
いや、それよりもずっと悪辣です。なぜなら、ヨーロッパのキリスト教世界が行ったことは、性犯罪の犠牲となった女性の家族を殺し、その家を奪い、そこに住み続けることができると約束するようなものだったからです。
だからこそ未だに、ヨーロッパのキリスト教世界が主催した買春ツアーの加害者の子孫たちによって、被害者の子孫たちが抑圧され、虐待され、殺され続けているのです。
ところが1世紀前の「買春ツアー」の主催者である西洋の教会は、沈黙を決め込み、レイプ犯であるイスラエルを糾弾することさえしていません。自分たちの罪の故に、パレスティナの人々が75年以上に渡ってとてつもない抑圧に苦しみ、飢餓状態に置かれ、今も殺され続けているにも関わらずです。
世界の教会は、悪が巨大であればあるほど、罪が大きければ大きいほど、人々の苦しみに目を塞ぎ、自分の楽しみだけを求める人間の逃避傾向を見事に表しています。
もし、教会に対する信頼と、イエス・キリストに対する信頼とがイコールであるならば、私はとっくの昔に、クリスチャンであることをやめています。
けれども、教会の罪と過ちと残虐性を知れば知るほど、そして自分の無力さを見つめれば見つめるほど、ナザレのイエスの姿がより鮮明に見えます。
「作家は現実がつらく暗いからこそ、想像力を武器に希望のある物語を書くものだ」というフィリップの言葉に倣えば、「牧師は想像力を武器に、希望のある説教を語るものだ」ということになるのでしょう。
残念ながら私には、今、目の前にある悪の巨大さと、それを生み出した教会の罪の大きさとの前で、希望のある説教を語る想像力がありません。
けれども私は今も、ナザレのイエスの言葉と生き方の中に、そして彼の上に起こったことの内に、希望があると信じています。
先週の日曜日には、「Z世代」によって始まった正義を求める運動が、アメリカ全土に拡大し、さらに世界の大学にまで広がっていることをお話ししました。
今や、抑圧されている人々と共にいて、抑圧している者たちに反対して立ち上がったナザレのイエスの姿を世に示しているのは、教会ではありません。「Z世代」の彼らであり、「Z世代」と共に立ち上がった人々です。
それは現代における「良きサマリヤ人」の実例のようなものです。
この時代には、「隣人」としてのあるべき姿を、教会の中に見出すことはできません。
「良きサマリヤ人」の姿は今、大学のキャンパスで、学生としての身分、教授としての身分、エリートとしての身分を危険に晒しながら、被害者の側に立ち、抑圧者に対抗して立ち上がっている者たちの中にあります。
彼らの中に、イエス・キリストの霊が働いています。
無気力と無関心に覆われた世界の教会が、彼らの息吹によって命を取り戻し、彼らと共に、虐げられ、苦しめられている友のために立ち上がる群れとされますように。
