復活節第7(昇天後)主日 説教

5月12日(日)復活節第7 (昇天後) 主日

使徒1:5-17, 21-26; 詩 1; Iヨハネ5:9-13; ヨハネ17:6-19

「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。」

 今朝の福音書朗読の中で「滅びの子」と呼ばれているのは、第1朗読の使徒言行録1章で「イエスを捕らえた者たちの手引きをした」と言われているユダです。

 このユダは、福音書の中では「イスカリオテのユダ」と呼ばれています。イエス様の時代、「ユダ」という名前は人気の名前で、そこいら中に、沢山の「ユダ」がいました。

 ところが教会の歴史の中で、「ユダ」は「裏切り者」の代名詞となりました。英語で人に “Judas!” と叫べば、「この裏切り者!」と言ってることになります。

イエス様には、沢山の弟子たちがいましたが、その中に十二使徒と呼ばれる弟子集団のリーダーがいました。そして、イスカリオテ・ユダは、その内の一人でした。

彼はイエス様から、財布の管理を任されていました。お金の管理をまかされていたわけですから、イエス様に信頼されている弟子だったことがわかります。

 しかし、そのユダが、イエス様と共にエルサレムに入城した後、イエス様を亡き者にする機会を伺っていた敵対者のもとを訪れます。

 彼らは「こいつは一体、何をしに来たんだ?」と思ったことでしょう。

 ユダは彼らと、銀貨30枚と引き換えにイエス様を引き渡す取引をします。その結果、敵対者たちの思惑通り、イエス様はローマの軍隊の手に引き渡され、十字架につけられ、殺されてしまいました。

 今朝の第1朗読は、途中の18節から20節までを飛ばして読んでいますが、そこにはペトロの言葉として、このようなことが書かれています。

「18 ところで、この男は不正を働いて得た報酬で土地を手に入れたのですが、そこに真っ逆様に落ちて、体が真っ二つに裂け、はらわたがみな出てしまいました。19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。」

 ここで使徒言行録の著者でもある「ルカ」は、ユダが金目当てにイエス様を敵対者に引き渡した結果、悲劇的な死に方をしたと言っているわけです。

 新約聖書のどの書物も、イスカリオテのユダのことを大悪党として、呪われた者として描いています。

 しかし、ひたすらイスカリオテのユダを悪役として描く福音書の記述から見ても、彼が金目当てにイエス様を引き渡したという説明には、無理があります。

 第1朗読の使徒言行録1章19節で「アケルダマ」、「血の土地」(‘χωρίον αἵματος’)と呼ばれている場所は、マタイ福音書の27章8節で「血の畑」(‘ἀγρὸς αἵματος’)として言及されています。

 そして、マタイ福音書は、イエス様が死刑判決を受けたと聞いたイスカリオテのユダが後悔して、受け取った金を祭司長や長老たちに投げ返して、首を吊って死んだと書いています。

 イスカリオテのユダが、金を目当てにイエス様を売ったのであれば、金を返すことなど考えずに、そのまま姿をくらましたはずです。

 イエス様に死刑判決が下ったことに衝撃を受け、後悔したのは、ユダはイエス様が殺されることを想定していなかったからでしょう。

 イスカリオテのユダだけではなく、イエス様の弟子たちは皆、イエス様が「メシア」となることを期待していました。

 彼らが期待していたメシアは、ローマの支配下に置かれていたエルサレムを解放し、神殿を異教徒の手から奪還し、ローマ軍を蹴散らす、「ダビデ王のようなメシア」でした。

 「ダビデ王のようなメシア」というのは、優れた戦略家として、敵を滅ぼし、戦争を勝利に導き、軍事国家としての栄光取り戻すことができる王ということです。

 イスカリオテのユダも、他のすべての弟子たちも、イエス様がそのようなメシアであると期待していました。

 イスカリオテのユダは、イエス様が敵と直接対峙するような状況を作り出せば、自分はメシアだとイエス様が宣言して、ローマ軍とローマと手を握る神殿当局者を滅ぼして、「神の国」が実現すると考えていたのでしょう。イエス様が逮捕されて、そのまま死刑判決を受けるなんてことは、まったくの想定外だったはずです。

 だからこそ、受け取った金を返すために、わざわざ祭司長や長老たちのところに行ったのです。

しかも、イエス様を裏切ったのは、ユダだけではありませんでした。十二使徒の残りの11人も、一番弟子のペテロも、すべての弟子たちが、イエス様を捨てて逃げてしまいました。

 逃げなかったのは、イエス様を支えた女性たちだけでした。

 ところが新約聖書を書いた男たちと、その後の教会は、寄ってたかって、イスカリオテのユダだけを悪者にしました。12使徒の残りの者たちが信仰的英雄に仕立て上げられる一方、イスカリオテのユダは、教会公認の、憎悪と軽蔑の対象となりました。

 今朝の福音書朗読箇所も含めてですが、ヨハネ福音書は二元論的な決定論に貫かれています。

 ヨハネ福音書の説明では、すべてのものが、その初めから、その起源から、あらかじめ、善と悪、神と悪魔、光と闇、この世とキリストの者、救われる者と滅びの子とに分かれていることになります。

もちろん、現実の世界は、二元論的決定論に従って回っているわけではありません。二元論と決定論は疑似説明であり、常に自己正当化の理論として発展します。

ヨハネ福音書の著者は、自分が所属する共同体のメンバーを光の子、神の子、救われた者、命に与る者として描きます。彼は、自分の中にも、自分が所属する共同体の内部にも、悪も、闇も、死も、滅びも無い、それらはすべて「外の者」の内にあるのだ、と考えています。

 二元論を掲げる集団は必ず、自分たちを光の側に、外部の者を闇の側に置きます。二元論を掲げる集団は、自分たちの中に悪がある可能性を認めません。

 しかしその結果として、二元論を掲げて自分を光の側に置く集団は、必ず、とてつもなく深い闇の中に落ち、巨大な悪に手を染めます。

 イスラエルという国は、西洋の入植植民地主義が生み出した悪の権化ですが、シオニストには、自分たちの悪が見えません。

シオニズムも二元論だからです。シオニストにとって、自分たちがすることは常に善であり、悪は外にのみあります。それ故、自分たちが振るう暴力も、自分たちが犯す殺人も、「神の力」、「正義の力」と見なされます。

ヨハネ福音書の二元論と向き合う時、私たちは、新約聖書の中にも、ナザレのイエスの教えとは相容れないものがあることに気付く必要があります。

イエス様は、自分の正しさを疑うことを知らず自分の中に悪はないと思っている人たちに向かって、こう言いました。

「41 きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。42 自分の目にある梁は見ないで、きょうだいに向かって、『きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目にあるおが屑を取り除くことができる。」(ルカ6:41, 42; マタイ7:3-5; トマス26:1, 2)

 二元論を振りかざす時、新約聖書の著者も、新約聖書の背後にある教会も、その後の教会も、私たちも、イエス様を裏切っています。

「私」が正しいからでもなく、人よりも清いからでもなく、「私」の命そのものを愛おしく思い、「私」の存在そのものを喜んでくださる神だからこそ、今日も私を恵みと、祝福と、慈しみの内に生かしてくださっている。

 これがナザレのイエスが語った良き知らせ、福音でした。

私たち聖マーガレット教会が、この福音に留まり、感謝を生きる教会であることができますように。