









5月19日(日)聖霊降臨日
エゼキエル 37:1-14; 使徒 2:1-21; ヨハネ 15:26-27; 16:4b-15
私は子ども時代から、探偵ドラマとか刑事ドラマが好きで、よく見ていました。古いところだと、「名探偵明智小五郎」とか「西部警察」、比較的新しいところだと「古畑任三郎」とか「トリック」とかの類ですね。
探偵モノも刑事モノも、人が死なないと話が始まりません。ですから、番組の最初の方で、誰かが殺されて、そこから物語が展開します。
子ども時代に見ていた刑事ドラマや探偵ドラマのストーリーは、どれひとつとして覚えていません。
ただ、昔の探偵モノも刑事モノの中には、殺人事件の被害者の口元に鏡を当てて、鏡が曇るかどうか、つまり息をしているかどうかを確認するシーンというのが、よくあったような気がします。
もちろん、被害者が死んでいないと話が展開しないので、「鏡が曇った、息をしてるぞ!」という展開にはならないわけですが、子どもでも、口元に鏡を当てるシーンを見て、「息をしているかどうか確認しているんだ」ということはわかりました。
息をしているということは、生きているということだ。息をしていないということは、たとえそこに体が残っていたとしても、命が無い、死んでいるということだ。
この、「息」と「命」との同一視は、最も古くて、もっとも普遍的な命の理解だと言うことができると思います。
そして、その最も古くて、もっとも普遍的な命の理解は、聖書の中にも様々な形で現れます。
もっとも典型的な例は、創世記2章7節です。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」
何千年も昔の人たちも、死んだ人間の体が土にかえることを経験し、知っていました。その経験と知識は、人の体も土と同じものからできているんだという洞察になります。
その洞察に達したとき、大きな神秘が同時に現われます。どのようにして、土に過ぎない体が、生命体に、生きた体になるのだろう、という謎です。
土でできた体が、生きた体であるときと、死んだ体であるときの違いは何か。それは息です。生きた体と、死んだ体とを分けているものは息です。
こうして、息と命との同一視、息を生命原理として捉える理解が生まれます。
しかし、息が命だということがわかっても、そこにまた大きな謎が現れます。
土に過ぎない人の体を、生きた体とする息はどこから来たのかという謎です。創世記2章7節は、その謎に対する答えです。
土に過ぎない人の体を、生ける体とする生命原理、息は、神から来ているのだ。神の息吹によって、土に過ぎない人の体が、生ける身体となる。創世記2章7節はそう言っているのです。
そして、創世記2章7節の、神の息と人の命との同一視は、ヨハネ福音書20章21節と22節のモチーフとなります。
「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」」
創世記2章では、土に過ぎない人間の体が、神の息吹によって、生ける身体となります。
ヨハネ福音書20章では、イエスの息吹によって、死せる体に、復活の命が吹き込まれます。
この、聖霊と復活のキリストの命との同一視は、ヨハネ福音書の中に示される複数の聖霊理解の中で、もっとも重要なものの一つです。
ところが、今日の第2朗読で読まれた使徒言行録2章1節から21節に示されている聖霊の理解は、これとはまったく違います。
「息は命である」という理解を創世記-ヨハネ福音書ラインとしますと、ルカの線は「息は言葉である」と言うことができます。
息は言葉なのです。もし嘘だと思われましたら、試しに、礼拝が終わった後、鼻と口を完全に塞いで、隣の方と話をしてみてください。(窒息しないようにくれぐれもお気をつけください)。
口の形と、舌の位置を定め、そこから吐き出される息が、言葉を言葉たらしめます。
人間特有の、言語によるコミュニケーションを可能にしているのも、息なのです。そして、ルカはこの線に従って、聖霊を理解しています。
聖霊降臨の場面では、聖霊はイエス・キリストの福音を、エルサレムを越え出て、世界のすべての民族に対して、世界のあらゆる言語で語ることを可能にする息として描かれているのです。
そして、今朝の福音書朗読の、聖霊を「弁護者」、証言をするものとする理解は、この系列の派生系ということができます。
弁護者というのは、法廷で被告人の弁護をする人のことで、ヨハネ福音書の編集者は、聖霊を有能な弁護士に例えているわけです。
最後に、息と風につながる聖霊理解に触れて、今日のお話を終わります。
ヘブライ語(ルーアハ)でも、ギリシア語(プネウマ)でも、そしてラテン語 (spiritus) でも、息と、命と、霊と、風は同じ言葉です。息は命であり、息は霊であり、息は風です。
息/風は、世界の中で、さまざまな出来事を引き起こすエネルギー、力と見なされます。こうして、世界は霊によって動かされているという理解が生まれます。
世界の中で起こることは、霊の力によって起こるんだということです。
ドイツ語にZeit Geist(世界精神)という表現がありますが、これも同じ系列に属しています。
新約聖書を書いた人たちも、世界の中で起こる出来事は、霊によって起こるという理解を共有しています。
例えば、福音書の中では、人が病気になることも、汚れた霊とか、悪しき霊の仕業だと見なされています。
ですから、イエス様が病を癒すときには、病気を引き起こしている霊を、イエス様が何か別の霊の力によって追い出していることになります。
新約聖書の世界の中では、病気を癒やすことと、悪霊を追い出すことは、基本的に同じことです。
イエス様の荒れ野の試みの物語を語った人たちは、この世を支配しようとする者たちは、悪魔から出てくる、悪しき霊によって駆り立てられており、イエス様は、悪魔と手を結んで、悪しき霊の力によって世界を支配する道を退けたのだと理解しています。
この線に沿って言えば、この世を支配しようとする者と結びついて、イエス・キリストの解放の働きに参与することはできないということになります。
今日のまとめです。聖霊、それはイエス様が語る言葉を、福音を福音とする息吹です。
聖霊は、人を癒し、人を自由にし、人を解放するイエス様の働きを貫き、駆り立てていた霊、風、力です。そして聖霊は、復活のキリストの命です。
教会が、ナザレのイエスの言葉に導かれ、彼が始めた自由と解放の運動を継続し、彼を通して現された復活の命を、神の国の祝宴の命を生きることができるのは、ただ聖霊の息吹によってです。
私たち聖マーガレット教会が、聖霊の息吹を受けて、福音を福音として語り、ナザレのイエスの解放運動を継続し、神の国の祝宴の命を生きる群れとして歩み続けることができますように。
