













2024年05月26日(日)三位一体主日
イザヤ書 6:1-8; ローマ 8:12-17; ヨハネ 3:1-17
2月14日の灰の水曜日から始まって、4ヶ月近く続いた長い長いイースター・シーズンが、先週の日曜日、聖霊降臨日をもって終わりました。
今日はキリスト教の教義の頂点と見做される三位一体という信仰箇条に当てられた日、三位一体主日です。
三位一体は、「神の内部に父と子と聖霊の3つのペルソナがあり、ペルソナにおいては互いに異なるが、(それぞれのペルソナは)同じ神の本性を有する」という教えです。
ご安心ください。「何を言ってるのかさっぱりわからない!」と思っているのは、あなた一人ではありません。周りの人たちも、何を言ってるのわかっていません。そもそも、言っている本人も何を言っているのか、イマイチよくわかっていないんですから、心配するには及びません。
私は今日、この三位一体という教義について、長々と話をしようと思っているわけではありません。むしろ教会が「神学をする」ことの重要さについて、「新しい神学を生み出す必要性」についてお話しをしたいと思います。
私は今年度から、毎週金曜日の午前中に、学校のキリスト教センターで、生徒の保護者の方たちを対象に、キリスト教入門講座を行なっています。出席者10人前後の、こぢんまりとした勉強会です。
私は、毎回、その日の話を終わった後に、10分くらいの時間を取って、参加者の方々に「リアクション・ペーパー」というのを書いてもらっています。
「リアクション・ペーパー」には、質問、感想、コメント、新たな発見、腑に落ちないこと、「何でも書いてください」とお願いしています。そして、次の回の初めに、「リアクション・ペーパー」に書かれた質問に答えたり、感想についてコメントをして、一方的に話すだけではなくて、interactive な学びになるように心がけています。
先週の金曜日に参加された方のリアクション・ペーパーに、このようなことが書かれていました。
その方の長女は小さい時から教会に通っていて、キリスト教関連の絵本や本が大好きでした。親や周囲の大人からの勧めがあったわけでも無いのに、友だちにイエス様のことやキリスト教のことを話す子だったそうです。
ところが、思春期に入って海外に引っ越し、学校で生物の学びをするようになった頃から、キリスト教から離れるようになりました。そして、自分の意志で、キリスト教系ではない学校に進んだその娘さんが最近、お母さんにこう尋ねました。
「学校の生物とか理科の先生でクリスチャンの人は、授業を教えるときに困らないのかな?」と。
私はこの質問を読んで、とても嬉しくなりました。それと同時に、キリスト教について自分が感じ続けてきた危機感を、再確認することにもなりました。
私は小学校時代から科学少年で、高校生時代は講談社ブルーバックスの愛読者でした。高校1年の時に洗礼を受けてから今に至るまで、「信仰と科学との対話」は、自分の神学的関心の中心にありました。
英語が読めるようになったおかげで、講談社ブルーバックスは卒業し、最先端で仕事をしている科学者たちの論文や著作を直接読めるようになりました。
高校1年のときにクリスチャンになって以来、地道に続けてきた信仰と自然科学との対話は、私のクリスチャン生活の知的側面を支えてきました。
2年ちょっと前に、私はキリスト新聞社発行の「ミニストリー」という雑誌の最終号に、「『キリストは再び来られます!』『いつ、どこに?』」と題した記事を書きました。その中で私は、中世から変わらぬパラダイムを引きずって、必要な変化を遂げることのできないキリスト教に対する危機感を、こう表現しました。
「自然科学が指数関数的進歩を遂げている最中、多くの教会は、教義と神学をどのようにアップデートすれば良いのかわからずに立ち尽くし、さらに少なからぬ教会が、教義を盾にして科学的知識に対抗しようとしてきました。その結果、自然科学の挑戦に向き合うことを避けてきたキリスト教は、子ども時代が過ぎれば卒業するおとぎ話か、最悪の場合、陰謀論に極めて近い「怪しげな言説」となりつつあります。」
キリスト教のはじめに、神論、キリスト論、三位一体論、聖霊論、原罪論、救済論、終末論、教会論、聖書論といった教義があったわけではありません。
最初にあったのは、「十字架の上で殺され、墓に葬られたナザレのイエスが、弟子たちの前に現れた」というメッセージと共に、驚くべき速さで世界に拡大した ‘Jesus Movement’ (イエス運動) でした。
聖書のどこにも、「神は父と子と聖霊の三位一体である」とは書かれていません。「三位一体」という教義は、ヘレニズムという巨大な文化遺産の中で生きていた教会が、神学という営みを通して生み出したものです。
政治的にはローマ帝国の支配となっても、文化的にはギリシアが支配したという言われるほど、ヘレニズム文化の存在感は圧倒的であり、ギリシア語こそが、学問のための言語でした。
ヘレニズム文化の影響力は、新約聖書に収められたすべての書物がギリシア語で書かれたということにも、端的に現れています。
新約聖書の中で、もっともヘレニズム的で、ギリシア哲学との親和性が高いのは、ヨハネ福音書です。
ヨハネ福音書が「初めにロゴスがあった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった」(1:1)と言っていなければ、ヨハネ福音書のトマスがイエス様に向かって「私の主、私の神よ」(20:28)と言っていなければ、そしてヨハネ福音書が「神は霊である」(4:24)と言っていなければ、「三位一体」という教義は生まれませんでした。
ヨハネ福音書の著者が「ロゴスは神であった」と言うことができたのは、ストア派の哲学から学んだからです。
だとしますと、例えば、現代物理学から学んだクリスチャンが、「神はエネルギーです」とか、「神は特異点 (singularity) です」と言ったからと言って、何も悪いことはないわけです。三位一体という教えを生み出した人々の世界観や、思考の枠組みの中に止まっている必要などありません。
むしろ、三位一体という教義を生み出した人たちが、当時の最先端の学問と神学を結びつけたように、私たちにも、現代の最先端の学問的知見と信仰とを結びつける神学が必要です。
科学的発見を、単に出来合いの教義の証明や補強に使おうとするだけなら、それは単なる護教論に過ぎません。
誠実な神学は、真理の発見に基づいて、信仰を革新する営みです。
「学校の生物とか理科の先生でクリスチャンの人は、授業を教えるときに困らないのかな?」という高校生の問いかけは、最先端の科学と信仰とを結ぶ神学を生み出すことを怠ってきた教会に対する警告です。
知性との結びつきを失った信仰の行き着くところは、迷信であり、カルトです。
停滞する神学の世界に聖霊の息吹が注がれ、ナザレのイエスへの信仰が、驚きに満ちた知的挑戦へと変えられてゆきますように。
