












6月2日(日)聖霊降臨後第2(特定4)主日
申命記 5:6-21; IIコリント 4:5-12; マルコ 2:23-28
今朝の福音書朗読の、「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか」という部分は、サムエル記上の21章と22章の物語を指しています。
サウル王に命を狙われていたダビデは、部下たちと共に、エルサレムのすぐ北の街、ノブに逃げ込みます。
この時代にはまだエルサレムの神殿は存在しませんが、旧約聖書の舞台となっている地域には、ありとあらゆるところに祭壇 (high places: 高き所) がありました。
ノブには重要な祭壇があり、そこで働く祭司たちがいました。しかし、ダビデにパンを与えた祭司はエブヤタルではなくて、アヒメレクという人です。エブヤタルは祭司アヒメレクの息子です。
マタイとルカは、マルコ福音書の間違いを修正するために、ダビデにパンを与えた祭司に関するマルコ福音書のくだりを削除しています。
しかし、今日の福音書朗読との関連でもっとも興味深いことは、マタイ福音書とルカ福音書が揃って、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」というイエス様の言葉を削除していることです。
この言葉は、イエス様の肉声に極めて近い言葉です。
実は、福音書の中でイエス様の言葉とされているもののほとんどは、福音書の著者か、福音書の著者が所属する教会の言葉です。
しかし、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」という言葉には、確実に、ナザレのイエスの声が響いています。
なぜなら、これはサドカイ派もファリサイ派も、祭司たちも、長老たちも、律法学者たちも、絶対に言わない言葉だからです。
では、なぜ、マタイもルカも、それを削除したのでしょうか?
ここが今日の説教のポイントです。ここが今日の説教のすべてです。
マタイもルカも、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と言ってしまうイエス様のことは弁護しようがないので、この言葉を削除したのです。
今日の福音書朗読の箇所でもそうですが、イエス様が批判される理由はいつも同じです。
イエス様と敵対した主流派のユダヤ人たちは、「イエス様が律法を破っている」から、「神の掟を守らない」から、イエス様を批判しました。
ところが福音書を書いた人たちは、「律法破りだ」というイエス様に対する批判をかわすために、様々な策を講じて、「イエス様は律法を破ってはいない」という弁護をしようとします。
マタイ福音書とルカ福音書ではこの傾向が顕著です。ところが、その結果として、ナザレのイエスの本当の姿が見えなくなる、ということがしばしば起こります。
律法は慣習法です。旧約聖書のトーラーには「安息日を守ってこれを聖別し、あなたの神、主があなたに命じられたとおりに行いなさい」とは書かれています。安息日に仕事をしてはならないとも書かれています。
しかし、何が仕事で、何が仕事でないかは書かれてはいません。
何が許されていて、何が許されていないかをはっきりさせる必要があるために、律法学者と言われる、今で言えば法律の専門家のような人たちが生まれました。
そしてイエス様の時代には、何が許されて、何が許されないかということに関して、すでに社会的合意ができていて、それが慣習法として機能していました。
ところがイエス様は、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と言ってしまいます。
この部分のギリシア語を直訳すると、「安息日は人のために生まれたのであって、人が安息日のために(生まれたの)ではない」となります。
これは、「掟は人のためにある」というのではなくて、「人が掟の上にある」と言っているのです。そして、イエス様は実際に、「人が掟の上にある」ように振る舞っていました。
当時のユダヤ人は皆、律法は神の掟であって、それは「人間の上にある」と信じていました。
神の掟は「人の上にある」から、人はそれに服従しなくちゃいけない。
神の掟への服従こそが、神の祝福を受ける道であり、ユダヤ教なのであって、人を律法の上に置いたら、ユダヤ教は崩壊してしまいます。
そんなことになったら、ユダヤ人社会全体が根底から揺さぶられて、これまでの体制は維持できなくなります。
「安息日は人のために生まれたのであって、人が安息日のために(生まれたの)ではない」と言っているイエス様は、「人が律法の上にある」と言っているのですから、そのイエス様を「律法に従っている」と弁護することは不可能です。
だから、マタイもルカも、ナザレのイエスの声が響く言葉を削除しているのです。
ナザレのイエスは、武器を振り回したことは一度たりともありませんでしたが、極めて過激な革命家でした。
ですから、イエス様の弟子として忠実に生きるという歩みは、伝統に従うことにも、慣習に従うことにも、ましてやルールに従うことにもないということになります。
「安息日は人のために生まれたのであって、人が安息日のために(生まれたの)ではない」と言って、人を法の上に置くイエス様の姿は、「脱構築」(déconstruction)で有名な Jacques Derrida に似ていなくもありません。
Derridaは、Force de Loi (『法の力』)という本の中で、法を制定するという営みには必ず、正当化し得ない暴力が伴っていることを明らかにしました。
本来、法を作る権限など誰も持っていません。法を作る特権的な地位にいる者は、人々をそれに服従させるために、脅迫と武力という暴力を使うことになります。
現在の国際法や世界秩序と言われるものが、西洋の植民地主義から生まれたも、同じ理由です。
法は多くの場合、権力者が権力維持のために、植民地主義者が植民地支配のために、犯罪者が犯罪を正当化するために生み出すものです。
ですから、一方では、掟や法というものは、人の作り上げたものに過ぎないとうことを認識していることが、極めて重要です。
税金を払うようにというルールを作る人間は、税金を払わなくても罰せられません。あるいは、自分たちにとって都合が悪くなれば、ルールを変えます。
5月24日、国際司法裁判所はイスラエルに対して、ラファでの軍事行動を直ちに停止するようにと命じました。
しかしイスラエルはそれを嘲笑うかのように、国際司法裁判所の命令が出た直後から、ラファでの攻撃を激化させました。
それと並行してアメリカは、イスラエルに対する国際司法裁判所の命令を批判し、アメリカが国際法に縛られはないと言い放ちました。
そして、イスラエル軍が虐殺行為を継続できるように、武器供与を続けることを宣言したのです。
他方、人間の中に、不正や悪に対する「普遍的な感覚」があることも確かです。
西洋世界の体制を支える人間たちは、言葉を弄して、イスラエルの残虐行為を弁護することに躍起になり、大手メディアはエスタブリッシュメントのプロパガンダを垂れ流しています。
しかし、世界の市民は、ガザの現実を日々、SNSを通じて目撃しています。
毎日、スクールバス2台分の子どもたちが殺され、頭が切り落とされ、手足が切り離され、内臓が飛び出し、どの頭がどの子どものものなのか、どの手足がどの子どものものかわからない状態で、病院に運び込まれています。
瓦礫の中から引っ張り出されてきた半死状態の人々が病院に運び込まれても、ガザの病院はすべてイスラエルに破壊され、医者たちはまともな治療を行うことができません。
一言添えておきますが、悪名高いナチス・ドイツですら、病院を爆撃することはありませんでした。
イスラエルは病院だけではなく、モスクを爆破し、教会を爆破し、学校も大学も爆破し、あらゆるインフラを破壊し尽くし、木を切り倒し、水源を汚染し、ガザ全体を、人が住めない状態にしようとしています。
その様子を目の当たりにしている世界の市民は、体制がどれほど必死になってイスラエルを擁護しようと、現在進行形の巨悪を、正当化し得ない悪として認識します。
それがパレスティナと連帯した反イスラエル、反エスタブリッシュメント運動の波として、世界中を駆け巡っています。
人はルール無しに生きることはできません。しかしルールを作る人間たちを徹底的に監視し、批判し続けなければ、ルールは必ず、特権的な地位にいる者たちの利益を守るための道具に成り下がるのです。
解放と自由は、すべての人たちにとっての益となるように、すべての人々に対する祝福となるように、ルールを乗り越え、ルールを変え続けることの中に現れます。
虐げられ、飢えと病に苦しみ、命の危険に晒されている人々の解放と自由を求めてルールを変え続けることが、市民の不利益になることなどありません。
それが不利益になるのは、自分のためだけに富を蓄積しようとする者たちにとってだけです。
イエス・キリストの霊、聖霊の息吹が私たちを生かし、すべての人々の祝福を求め、特権階級を支えるルールを乗り越えていく者としてくださいますように。
