












6月9日(日)聖霊降臨後第3主日 特定5 説教
Iサムエル 8:4-20; IIコリント 4:13-5:1;マルコ 3:20-35
昨日、土曜日の午後、一時帰国をされているUNDP(国連開発計画)のパレスチナ人支援プログラム副代表を務める野口千歳さんをお迎えして、ガザの現状についてお話を聞く、貴重な機会が与えられました。
ガザでは35の病院がすべて爆撃され、現在、その内の14だけが部分的に稼働しています。住宅の60%が破壊され、パン屋さんや商店も含め、商業施設の8割が破壊され、267のモスクや教会が破壊され、地下水の水源の83%が破壊され、86の学校が破壊されました。
道路、水道、発電施設、インターネットの中継拠点をはじめとするあらゆるインフラも、ほとんどが破壊されました。
支援物資を積んだトラックがことごとくイスラエル軍と違法入植者たちによって止められ、100万人以上のガザ住民が、餓死の危険に直面しています。
そんな中で、35人の野口さんの同僚たちは、今もガザに残り、文字通り命懸けで、細々と入ってくる支援物資を人々に届け、太陽光発電で稼働する可動式 (mobile) 淡水化装置を提供し、どうにかガザの人々の命を繋ごうとしています。
イスラエルは5月半ばまでの時点で、少なくとも490人を超える医療従事者と、100人を超える報道関係者と、250人を超える支援団体の職員を殺しました。
その中にはUNDPの職員も一人含まれていました。ガザでセキュリティー担当職員として働いていたイッサーム・アル・ムフラービ(Issam Al Mughrabi)さんは、妻と、5人の子どもたちと共に、イスラエルの爆撃によって殺されました。そのとき、同じ建物に避難していた70人以上の親類も、一緒に殺されました。
野口さんは、涙をこらえて同僚の死について語りながら、一人の死は、何百人もの人々を悲しませるんだと言われました。
何も悪いことをしていない人々が、征服者、占領者によって殺されていく。その現実は、イスラエルが現在進行形の植民地化プロジェクトあることを証しています。
野口さんは会場からの質問に答える形で、このように言われました。
ガザでの戦いが終わった後に、持続的で発展的な開発を行うためには、イスラエルに依存しない開発計画が必要で、そのためにはアメリカやイギリスといった、影響力の強い世界の国々の政治が鍵を握っている、と。
しかし、皆さんもお気づきのように、それはもっとも難しい問題でもあります。
今朝の第1朗読は、イスラエルの民が、周辺国と同じように、自分たちも王のいる「普通の国」になりたいとサムエルに迫るところです。
その要求に対するサムエルの答えは、時代が変わっても変わることのない、人々に対する支配者の振る舞いを示しています。
王が支配する民の運命は17節に書かれています。民は皆、王の奴隷となるのです。人間を支配者として掲げるということは、その下で生きる者たちは、支配者の奴隷になるということです。
軍事部門か、農業部門が、工業部門か、あるいはサービス部門かという違いはあっても、人間が支配者として治める体制の下では、支配者の下にある民は奴隷です。
それは「民主主義」が謳われるようになって久しい政治体制の下でも、大して変わらない現実です。いえ、むしろこの30年、人々の奴隷化はより深刻になっているとさえ言えるでしょう。
1970年の時点で30対1だった一般労働者と会社の最高経営責任者の給与格差は、数年前に300対1にまで拡大しました。
1%の超富裕層が所有する富は、残りの99%が所有するすべての富を合わせたよりも大きく、この1%が支配する富の割合は拡大を続け、残りの99%が所有する富の割合は縮小を続けています。
ここ5,6年の間に、日本でも急激な物価上昇が起こっていますが、実質賃金は下がり続ける一方です。ところが税金は上がり続け、公共サービスの料金も急上場しています。
そんな中で、どこぞの日本の自動車会社は、過去最高益を叩き出したりしているわけです。
それが意味しているのは、私たちはサムエル記に描かれている時代とそう変わらない現実を生きているということです。
自由と解放に向かう道を本気で歩もうと思うなら、「私たちは奴隷状態にある」という喜ばしくもない現実を、認めることから始めなければなりません。
支配体制にどんなレッテルを貼ろうと、体制が体制として固定化した暁には、その内部にいる者たちは、自分のポジションと、影響力と、特権とを守るために動くようになります。
人々が、「自分たちは奴隷状態に置かれている」ということを忘れたとき、支配体制はもっとも完成されたものとなります。
完成された支配体制は、何か想定外のことが起こらない限り、自動運転で延々と転がり続けます。
アメリカを中心とする西洋の国々が、もっともこれに成功しました。市民は支配者がどどほど残虐なことを行っているのか知らず、支配者が何をしているかに無関心になりました。
しかし、どんなに計算され、洗練され、完成された支配体制であっても、人を完全にコントロールすることなどできません。
人の中には常に、自由と解放を求める願いがあります。そして支配者の悪が民衆の忍耐の限界を超えた時、自由と解放への願いは爆発し、体制を揺り動かします。
体制は自由と解放を求める人間を最も恐れます。ですから、自由と解放を求めるうねりが大きくなったとき、体制の暴力も頂点に達し、もっとも苛烈になります。
なぜ西洋世界の国々の政府は、パレスティナ人の虐殺をやめろと叫ぶ学生たちや市民を恐れ、デモを鎮圧し、デモ参加者の逮捕に躍起になっているのでしょうか?それは、自由と解放を求める民衆の力が大きくなって体制が崩壊し、自分のポジション、影響力、特権を失うことを恐れているからです。
イエス様が、人々の病を癒し、悪霊を追い出し、人々を解放し、自由にするために働いていた時、ユダヤの政治と宗教と経済を牛耳る人々は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言いました。
イエス様の家族たちは、支配者によって貧しくされ、虐げられ、苦しめられているにも関わらず、体制が定めたルールを内面化しています。
家族が、イエス様が安息日に病を癒し、悪霊を追い出していると聞いて、「あいつは気が変になっている」と思ったのは、体制のルールを、彼らが内面化しているからです。
イエス様に起こったことは、私たちがイエス様に倣って、人々を癒し、人々を解放するために働こうとするときにも起こります。
例えば、パレスチナ人のクリスチャンが、虐殺の手を逃れて日本に辿り着き、助けを求めて聖マーガレット教会にやって来たとします。その人が政府によって、体制によって、密入国者だと言われたとき、私たちはどうするでしょうか?
政府にとってのただの密入国者は、私たちにとっては神の家族のはずです。強制送還のためにその人を引き渡せという体制に対して、「この人は私たちの家族なので、引き渡すことなどできません」と言ったとしたら、私たちは体制とそれを支える人たちから、何と言われるでしょうか?
きっと、「頭がおかしい」「反日」「非国民」「テロリスト」と呼ばれるでしょう。
その時にこそ、私たちは思い出すべきです。イエス様も「気が変になっている」、「ベルゼブルに取りつかれている」と言われていたということを。
イエス様と共に救いの業を、解放の働きを担ったのは、支配者ではありません。体制ではありません。体制によって貧しくされ、抑圧され、苦しめられている、社会の底辺にいる人たちがまず、神の国の活動家となったんです。
野口さんは、昨日の講演会の最後に、ただ色々な報道を通して、こんなに酷い目にあっている人が可哀そう思うのではなくて、どんなに小さなことでも、自分のできることをするということが大切だと言われました。
きっと野口さんは、一人の人間として、一市民として、自分にできることをしようとする人たちの起こす小さな波が、大きなうねりとなり、それが世界を変えるんだと信じておられるんだと思います。
イエス様の解放の業も、小さなさざ波として始まり、そこに共鳴した貧しく小さな者たちが、また小さな波を起こし、干渉によって大きくなった無数の波が、Jesus Movement(イエス運動)として世界中を巻き込むことになりました。
私たちも、たとえ「頭がおかしい」「反日」だと言われたとしても、貧しくされ、苦しめられている人たちと共に歩み、すべての人の解放と自由に向かって働くことを喜ぶ者であることができますように。
