










6月16日(日)聖霊降臨後第4主日 特定6
エゼキエル 17:22-24; 2コリント 5:6-17; マルコ 4:26-34
今日の福音書朗読の中には、神の国についての2つの例え話があります。最初の例え話は26節から29節まででの「農夫と種」の例えです。もうひとつは30節から22節までの「からし種」の例えです。
後半の「からし種」の例え話は、共観福音書のマタイ13章31節から32節とルカ13章18節から19節にも出てきますが、26節から29節までの「農夫と種」の例え話は、マルコ福音書にしかありません。
さて、今日の福音書朗読に出てくる2つの例え話はどちらも、種とその成長に関するもので、2つの似たような話だと言えなくもありません。
けれどもそれぞれの例え話の強調点は、大きく異なっています26節から29節の「農夫と種」の例えでは、「農夫のすることがほとんどない」ところに強調点があります。
農夫は種を蒔きます。しかし、後は何もしません。というよりも、一旦種が蒔かれたら、その後には農夫にできることは何もないと語られます。
神の国のポテンシャル、神の国の命は、種の中に備わっていて、農夫が何もしなくても、勝手に芽を出します。
出てきた芽が、さらに成長して、茎となり、穂が出て実を実らすかどうかは、種が落ちた土壌にかかっていて、農夫にできることは何もありません。
蒔いた種が、良い地で実を実らせたなら、その時に改めて、農夫のするべきことができます。
では、私たちが神の国の種を蒔く農夫だとして、神の国が世界に広がっていくために、私たちにできることは何もないのでしょうか?
私は、神の国の種を蒔く者として、私たちにできこと、私たちのすべきことがあると思います。
それは「どんな物語として神の国を語るか」ということです。教会がその歴史の中で、神の国の物語として語ってきた多くの物語は、神の国の名に値しなかったと、私は思います。
大航海時代と共に始まったヨーロッパの植民地主義は、神の国と重ねられてきました。
先住民の虐殺、彼らの土地の略奪、植民地の拡大は、神の国の勝利、神の国の拡大として語られてきました。
そして私たちは今だに、偽りの神の国の物語が生み出した悲劇の中に生きています。
代祷の中に出てくる、コンゴ、スーダン、ソマリアをはじめとするアフリカ諸国の紛争も、シリア、レバノン、イラン、イラク、そしてパレスティナの紛争も、すべて、西洋の植民地主義の遺産です。
現在の教会は、世界中の悲劇を生み出した加害者の後継者です。私たちは、植民地主義と一体化してきた教会の歴史と向き合う義務を負っています。
それをしなければ、偽りの神の国の物語を捨てて、新しい神の国の物語を生み出すことができません。
新しい神の国の物語を生み出すために、今日の福音書朗読のもう一つの例え話、「からし種」の例えから、私たちは学ばなくてはなりません。
からしはキャベツの仲間だそうですが、その種はホコリみたいに小さくて、一旦、土の上に落ちてしまったら、そこに種があることに誰も気づきません。
しかし、からしは非常に強い植物で、土を選びません。他の作物が育たないような荒れた土地でも、人知れず生き延びて、3,4メートルにも達するブッシュになります。成長したからしの茂みは、あらゆるところからやってくる、さまざまな鳥たちにシェルターを、休息の場を提供します。
この「からし種」の例えは、非常にイエス様らしい、ウィットに富んだ、ユーモアに溢れた例え話です。
イエス様は、神の国について、神が王として治める世界という big idea について語っています。
ところが、とてつもない大構想について話をしていながら、イエス様が用いる題材は、世界にその名を知られる、そびえ立つレバノン杉ではありません。
イエス様は、神の国という big idea について語るために、平凡極まりない、そこいら中にあって、誰も注目しない、からしの種を選びました。
私たちが、神の国にふさわしい、新しい神の国の物語を生み出すためには、神の国という big idea と、からし種のギャップを、このコントラストを、維持し続けることが大切なんです。
つい最近、YouTubeのおすすめに Pub Choir というチャンネルの動画が出てきたので、何本か見てみました。
Pub Choirというのは、オーストラリアのブリスベンで、音楽教師だったアストリッド・ヨルゲンセン (Astrid Jorgensen) という女性が立ち上げたプロジェクトです。その名の通り、パブに飲みに集まった人たちが、一緒に歌うという企画です。
そこに集まっている人たちは、私たちがイメージするような聖歌隊とか合唱団の固定メンバーではありません。
「楽譜が読めない」、「人前で歌うのは恥ずかしい」、「声に自信がない」、でも歌うのが好きだという人たちがチケットを買って、指定のパブに集まります。
1回のショーは90分で、その間に食べて、飲んで、合唱曲の練習をします。歌うのは、ヨルゲンセンが三声に編曲した、誰もが知っている、ポピュラーな曲です。その後、本番で全員が歌っている場面を録画して、その動画はSNSのアカウントにアップされます。
最初はたったの17人、ギター一本の伴奏で始まったPub Choirの企画は、成長に成長を続け、今や、世界中に広がっています。
私はPub Choirの動画を見た後、「なんでこれを教会がしなかったのだろう」と思いました。
いやいや、酒を飲みながら、世俗の歌を歌うことの何が、キリスト教や神の国と関係があるんだと思われたら、ぜひこのことを思い出してください。
私たちの主は、イエス様は、パリピーでした。彼が語った神の国の中心にあるのはパーティーです。
共に集まって、一緒に食べて、一緒に歌って、一緒に踊ることを通して平和を作る。それはイエス様の生き方に倣いながら、イエス様が語った神の国を作ることそのものじゃないでしょうか。
教会は、聖歌を歌い、荘厳な礼拝を捧げながら、アフリカ大陸で人々を拉致し、アメリカ大陸で奴隷として売り飛ばし、先住民を虐殺し、植民地の拡大を神の国の拡大として語ってきました。
それは神の国の現れでしょうか?それは神の国の物語と呼ぶに値するでしょうか?
私は、聖マーガレット教会が、多くの人を招く祝宴共同体になることを、本気で夢見ています。
もちろん、マーガレット教会が企画するさまざまな祝宴の場に来てくださる方が、みんな洗礼を受けて、教会のメンバーになるなんてことは起こりません。そもそも、そんなことを期待する必要もありません。
けれども、Pub Choirがすでにそのことを私たちに示してくれたように、教会が神の国のヴィジョンを具現化するような祝宴の場を定期的に設けたなら、そこには必ずリピーターができます。
そして、そのリピーターの中から、パーティーの主催者側に入って働きたいと思う人が、イエス様の神の国のヴィジョンに共鳴し、Jesus Movementの担い手となる人が現れます。Jesus Movementの担い手を生み出し続けることができれば、私たちは祝宴共同体として歩み続けることができます。
イエス・キリストの父なる神が、聖マーガレット教会という小さな種を、さまざまな所からやって来る人々が休み、癒され、再び飛び立ってゆく、大きな休憩所へと成長させてくださいますように。
