聖霊降臨後第5主日 説教

6月23日(日)聖霊降臨後第5主日(特定7)

ヨブ 38:1-11; IIコリント 6:1-13; マルコ 4:35-41

今日の福音書朗読は、弟子たちの乗った舟が嵐に見舞われる話です。弟子たちの乗り込んだ舟が湖でトラブルに見舞われる話は、すべての福音書の中にあります。

実はマルコ福音書の6章45節から52節にはもう一つ、弟子たちの乗った舟が逆風にあおられて進めない話が出てきます。

こちらは今日の話よりもさらに劇的で、イエス様が水の上を歩いて、弟子たちが乗った舟のところまでやって来て、風をしずめます。

福音書を研究する聖書学者たちは、福音書の文脈の中に、福音書が書かれた時代の教会の状況が投映されていることを明らかにしました。

弟子たちが乗り込んだ舟を襲う嵐というのは、福音書の著者自身が所属している教会が直面している嵐です。

福音書の中に収められている、舟を飲み込む嵐をイエス様が沈めるという物語はみな、動揺する教会を安定化させるために書かれたものです。

マルコ福音書が書かれた時代の教会は、いくつもの困難な問題に直面していました。

エルサレムで生まれた最初の教会のメンバーは、ほとんどすべてユダヤ人でしたが、イエスがメシアだと信じる共同体は、同胞のユダヤ人から拒絶されました。

福音は異邦人世界に広がっていきましたが、教会はローマ帝国内で何の法的位置づけも持たない地下組織に過ぎませんでした。そのため、教会のメンバーたちはしばしば、激しい迫害に晒されました。

しかし彼らはイエス・キリストが帰って来る時には、神が迫害者たちを滅ぼし、救いを完成してくださるという希望を抱いていました。ところが、帰ってくると思っていたイエス様は、帰ってきてくれませんでした。

「柱」と目された使徒たちも次々と世を去り、教会は嵐に飲み込まれて沈む寸前の舟のようになりました。

迫害に晒される弱小共同体は動揺し、キリストの再臨と神の国の完成への期待はしぼみ、多くの人々が教会から離脱していきました。

しかし、イエス様が帰って来る確かなしるしと思われ る出来事が起こりました。エルサレム神殿の崩壊です。

マルコ福音書の著者は、紀元後の66年から70年までの神殿崩壊のプロセスを見ながら、福音書を書いています。

舟の後ろの方で寝ていたイエス様は、弟子たちの叫ぶ 声に目を覚まし、風と波を叱りつけて嵐を沈めてくださった。イエス様が予言されたように神殿は崩壊した。「主よ、来てください」という祈りに応えてイエス様が再び来られ、教会の敵を滅ぼされる日が目前に迫っている!だから気を取り直して、希望を失わず、救いの成就の時を待とう。

今日のマルコ福音書朗読の物語は、そう言っているのです。しかし、キリストは帰って来ませんでした。

旧約聖書の預言者たちは、悪に対する裁きと、神を恐れ敬う者に対する報いが与えられる「主の日」について語りました。しかし、預言者が語った「主の日」は無限に先送りされてきました。

教会の語る「主が再び来られる日」が、無限に後退する地平線であることも、「その時が迫っている」と語っ た人々が皆世を去った時点で、どんなに遅くとも1世紀後半までには、明らかだったはずです。

ところが、いつでも、何があっても、「自分たちは正しい!」と主張する「正統教会」は、「キリストは私たちが期待したほど早くは帰ってこなかったけれども、そう遠く無いうちに必ず帰って来る」と言い続けました。

見直しのタイミングを逸し、延命を続けられてきた再臨の教義は、いつしか迷信的終末論となって、歴史の中で様々な問題を生みだすことになりました。

その最新のものが、ガザの殺戮工場です。世俗権力と結びついた教会は、塩気を失った塩どころか、体制の軍隊と一体化して、平和の破壊者となりました。

今、西洋の教会が生み出した大嵐の中に全世界が投げ 出され、翻弄されているわけですが、伝統的とか歴史的と称されるほとんどの教会は、自ら生み出した嵐の中で、 怪しい沈黙を保っています。

そして、つい最近、この沈黙は歴史的教会が嵐の中に沈みつつあることを意味しているんだと思わせる出来事がありました。

先週の水曜日、カトリックの聖地特別管区に属するエルサレムの教会で、主席オーガニストを務めているヤクーブさんという方と話をする機会がありました。

実は先週の火曜日に急遽、7月28日の日曜日に「イスラエルとパレスチナの平和を願う会」主催のオルガン・コ ンサートを、マーガレット教会で引き受けることが決ま りました。すると翌日、会場とオルガンの下見をしたいということで、日本側の窓口となっている方と共にヤクーブさんがマーガレット教会を電撃訪問されました。私は学校勤務の日だったのですが、学校を抜け出して、ヤクーブさんにお会いしました。

色々な話をしている中で、エルサレムでも教会が消滅の危機に瀕していると聞かされた時、私は非常に驚きました。しかし、その後すぐに、「あ~、伝統的キリスト教とか歴史的教会というものが、もう限界を迎えたんだな」ということを直観しました。

彼が首席オーガニストを務めるエルサレムの教会には、 6000人のメンバーがいるそうですが、毎週日曜日のミサに 来るのは、たったの200人です。私はてっきり、メンバーの大部分がエルサレムに住んでいないのかと思ったのですが、そうではないそうです。

6000人のメンバーたちは、教会に来られるところに住んでいるけれども、所属メンバーの3.3%、100人中3人しか、ミサに来ないんです。

それは、初代教会が生まれたエルサレムでも、大部分の「クリスチャン」はもはや、教会が語る言葉にも、教会で行われる礼拝にも、意味を見出さなくなっているということです。

延命に延命を重ねて迷信となった「キリストの再臨」という教義が、ガザの殺戮工場を生み出し、世界を嵐の中に放り込んだのに、教会は自ら生み出した嵐の中で沈黙を保っています。

そして世界中の教会が沈黙する中で、ガザの街はイスラエル軍の攻撃によって破壊し尽くされました。この廃墟となったガザの姿は、嵐が過ぎ去った後の、歴史的教会、伝統的教会の姿を先取りしているのではないでしょうか。

平和の破壊者となり、ナザレのイエスの語った神の国を放棄した教会が、嵐の中に沈み、消えていこうとしているのです。それはきっと、悲しむべきことではなく、むしろ歓迎すべきことなのでしょう。

イエス様が語られた神の国は、イエス様が再び帰って来て、教会の敵がすべて滅ぼされたところに現れるものではありません。

イエス様の神の国は、ユダヤ人とサマリア人と異邦人が、共に祝宴の食卓につくところに現れます。敵対する者たちが和解し、共に食卓につくところに、神の国が現れます。

「私たち」の中に入らなかった人たちを招いて、共に食べ、共に歌い、共に踊り、共に世界について語り合うところに、神の国が現れます。

それはイエス様が弟子たちを送り出した「向こう岸」です。

主が聖マーガレット教会を「向こう岸」へと送り出し、 私たちの間に神の国を現してくださるよう、共に祈りましょう。