聖霊降臨後第6主日 説教

聖霊降臨後第6主日(特定8)(B年)

知恵の書 1:13-15; 2:23-24; IIコリント 8:7-15; マルコ 5:21-43

 昨日は北関東教区と東京教区合同の按手式が行われました。北関東教区の大山洋平執事が司祭に、東京教区の福永澄聖職候補生が執事に按手されました。

 まず、澄さんから皆さんに宛てたメッセージを託されましたので、それをお読みいたします。

塚田重太郎司祭さま

聖マーガレット教会の皆さま

 主の御名を賛美します。

 聖職候補生志願の時から、いつも代祷の中でお覚えいただき、またお支えいただいておりますこと感謝いたします。

 また、昨日はご多用中のところ執事按手式に多くの方々にご出席、お立ち会いをいただきましたことも、心強く感じ、嬉しく思いました。

 茶話会のためにお心づくしの焼菓子などをご用意くださり、さらに聖マーガレット教会と皆さまよりのご厚志を賜りましたこと感謝いたします。ありがとうございます。

 皆様にお目にかかって直接に御礼申し上げたいところではありますが、教会での勤務がございますので、書面にて失礼いたします。

 神様のお導きと、皆様のお支えのおかげをもちまして公会の執事に按手されました。

 まだまだ一人前にはほど遠い者ではありますが、これからは教区・教会のため、教会に集う方々のため、これからキリストに出会うであろう方々のために働いてまいりたいと思います。

 聖マーガレット教会の皆さまとは離れた場所におりますが、「パンが一つであるから、私たちは多くいても一つのからだです」の言葉の通り、私たちは離れていても共にキリストに連なる弟子として一つにされているのだと思っています。

 立川方面にお出かけの折には、聖パトリック教会にもお立ち寄りください。歓迎いたします。

 これからも、お祈りのうちにお覚えいただき、お支えいただければ幸いです。私も聖マーガレット教会の皆さまを覚えて祈ります。

 皆さまの上に、主の祝福と恵みが豊かにありますように アーメン

主にあって

日本聖公会東京教区 聖パトリック教会 牧師補 執事パウロ福永澄

聖マーガレット教会で育ち、教会で働きたいという願いが与えられ、ここから送り出された澄さんが、執事に按手された。そのことを本当に嬉しく思っています。

 しかし同時に、もっとも重要な按手は洗礼だということを、皆さん心に留めてください。一番大切な按手は洗礼です。

 教会は信徒の群れです。信徒の群れとしての教会が無くなったなら、按手を受けた奉仕職の仕事はありません。

 洗礼を受けた者は全員、「キリストの祭司職」にあずかる者となり、「キリストを証しし、この世でキリストの和解の業を遂行し、教会の生活と礼拝と運営に責任を負う者」とされているんです(『祈祷書』の「教会問答第29答」)。

 皆さん、自分が教会の中で、「どのような働きに召されているか」、「与えられた賜物をもって、どのように共同体を豊かにすることができるか」、ぜひ考えてみてください。

 さて、一瞬、「澄さんのメッセージを読むだけで話が終わった方が、皆さんに喜ばれるかもしれない」と思ったのですが、いかにも仕事をサボってる感満載なので、もう少しだけ話を続けさせていただきます。

 今日の福音書朗読の物語には、2つの出来事が出て来ます。しかも、1つの出来事が始まって、それが終わらない内に、2つ目の出来事が起きて、2つ目の出来事が終わった後に、1つ目の出来事の続きに戻るという作りになっています。

 今日の物語に出てくる2つの出来事は、二人の「若い女性」を中心に展開します。ヤイロという会堂長の娘と、12年間に渡って不正出血に苦しむ女性です。

 会堂長のヤイロとその家族は、律法を忠実に守って生活している「清い人」たち、 ‘the mainstream’ です。

父と共に暮らす12歳のヤイロの娘は、まだ男性と関係を持ったことがない「清い女性」です。それは「神の祝福を受けるにふさわしい者」だということを暗示しています。

 他方、12年間に渡って不正出血に苦しみ、持てるものをすべて失った若い女性は、神の掟とされる律法によって、「汚れた者」です。

 モーセの律法が支配するユダヤの社会には、「汚れた者」の居場所はありません。

「モーセの律法」は、月経の期間、女性は汚れており、不正出血の続く期間も汚れていると定めています。汚れは伝染して、清い人を汚すと考えられていたので、汚れている人はコミュニティーから排除され、隔離されなければなりませんでした。

 ですから、12年間不正出血に苦しむ女性は、汚れた者としてイスラエル社会から排除され、忌み嫌われ、周辺化された人々を代表していると言うことができます。

 ところが、ユダヤ人社会の中で、清く、祝福を受けるにふさわしいと見做されていたヤイロの娘は、若くして死の淵を彷徨っています。

 恐らくマルコ福音書の著者は、今まさに死なんとしているヤイロの娘の姿を通して、律法が命を与えることはできない、と言おうとしているのでしょう。

他方、12年間、不正出血に苦しむ女性は、ヤイロの娘のように、生物学的な死という危機に直面しているわけではありません。しかし彼女は、神の掟に従って自らを清く保ち、神の祝福を受けようとする人たちによって、社会的に抹殺された存在です。

 マルコ福音書は、二人の若い女性の姿を通して、清い者と汚れた者との隔ての壁が壊されなくてはならないことを、私たちに教えようとしているのでしょう。

 ヤイロの娘の姿は、律法が人を生かすことはできないことを示しています。12年間不正出血に悩む女性の姿は、律法によって社会的に抹殺される人たちの苦しみを映し出しています。

 この2人の女性の物語は、ナザレのイエスが、どのようなコミュニティーとして「神の国」を考えていたか、ということにも気づかせてくれます。

 イエス様は、「清い者」と「汚れた者」との分断が乗り越えられるような共同体として神の国を捉えていました。それは彼の生き方の中にも現れていました。

 イエス様が「清い者」と「汚れた者」との境界線を次々と乗り越えて、隔ての壁を打ち壊したからこそ、後の教会は、「汚れた存在」である異邦人を受け入れざるをえなくなったのです。

 しかし残念ながら、教会はイエス様が壊した隔ての壁を再び築き上げ、清い者と汚れた者との新たな分断を復活させました。

 ナザレのイエスが壊した隔ての壁を再び築き上げた結果、教会は、世界の中に、平和ではなく戦争を生み出し、命ではなく死をもたらす集団となってしまいました。

 教会の歴史そのものが、人は元来、隔ての壁を作り出すのが得意だということを証明しています。

放っておけば、気付かないうちに、無数の隔ての壁を築き上げ、出来上がった壁を壊すことに激しく抵抗する。残念ながら、それが人間の自然な姿です。

ですから、隔ての壁はどこにでも、必ずあります。私たちの中にも、聖マーガレット教会の中にも、意識することのない、隔ての壁があるはずです。

 分断を乗り越えるためには、無意識に作り上げた隔ての壁を、意識に昇らせることが必要です。

 今、北関東教区と東京教区は、新教区の創設を目指して動き始めていますが、2つの教区の間にも隔ての壁があることを、私たちは意識しています。

 昨日の北関東教区と東京教区との合同按手式は、東京教区と北関東教区を隔てる壁を壊すための、大きな歴史的な一歩となりました。

 隔ての壁が壊れるとき、そこに新しい出会いが生まれます。新しい出会いを通して、コミュニティーも新しくされます。

 隔ての壁を打ちこわして、分断を乗り越えてゆくコミュニティーとして成長する。それは、イエス様が教会に与えたミッションそのものです。

 私たちは、ナザレのイエスに倣って生きることによって、高い壁を立て、自分と違う者を外に留め置き、自分を守ろうとする誘惑から解放されます。

 聖マーガレット教会が、ナザレのイエスを突き動かした聖霊の息吹によって、隔ての壁を打ちこわし、分断を乗り越え、決して出会うことのない人たちが出会い、共に生きる喜びを知るコミュニティーとされますように。