














7月7日(日)聖霊降臨後第7主日
エゼキエル 2:1-5; IIコリント12:2-10; マルコ 6:1-13
今日の福音書朗読は、先週の福音書朗読に続く箇所です。
先週の福音書朗読、マルコ5章21節から43節は、イエス様が、若くして命を落とした会堂長ヤイロの娘を生き返らせ、12年間も不正出血に苦しんできた「汚れた女性」を奇跡的に癒す物語でした。
その直後に続く今日の福音書朗読の物語には、1節から6節前半までと、6節後半から13節までの、2つのエピソードがあります。
今日は1節から6節前半までの前半のエピソードに絞ってお話をいたしますが、この部分は、先週の福音書朗読の物語と正反対の内容です。
先週の福音書朗読が、イエス様の行った奇跡的な業について語っているのに対して、マルコ6章1節から6節前半のエピソードは、イエス様が力ある業を行うことができなかったことを告げています。
ナレーターの「マルコ」は、「そこでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒やされたほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)とこのエピソードを締めくくっています。
ギリシア語の語順に重点を置いて、私なりに直訳すると、「彼はそこで、いかなる力も行使/発揮できず、弱っている数人の上に手を置いて癒したのみであった」と訳せると思います。
このエピソードは、マタイ福音書にもルカ福音書にもあります。マタイの福音書とルカ福音書の著者は、マルコ福音書の今日のエピソードを、自分たちが書いた福音に取り入れているんです。
ところが、イエス様が力を発揮できなかった、力ある業を行うことができなかったと言っているのは、マルコの福音書だけです。
端的に言えば、マタイ福音書とルカ福音書の著者は、「イエス様はこれこれのことができなかった」とは言いたく無かったんです。
しかし、マルコ福音書の、自分がしたいと思っていることができないイエス様は、マタイやルカ福音書の著者よりも忠実に、ナザレのイエスという人の姿を表しています。
マルコ福音書の著者は、すでに5章までの段階で、イエス様に対する不信が律法学者、ヨハネの弟子たち、ファリサイ派、ヘロデ党、そして家族にまで広がり、敵対者が増えていく様子を描いています。
そして今日の福音書朗読は、イエス様への不信が、故郷のすべての人々にまで及んでいることを描いています。
その結果として、イエス様は力を行使することができなかった、神の国の到来を示す奇跡的な業を行うことができなかったと、マルコ福音書は語っているのです。
マルコ福音書は(も)、イエス様を通して、神の国の到来のしるしとなるような、力ある業が行なわれていたということを語るために書かれました。十字架刑の場面を除けば、マルコ福音書に記されているほとんどすべてのエピソードは、イエス様が「何をしたか」を語っています。
「何ができなかったか」を語っているのは、今日の福音書朗読の箇所だけです。
「そこでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒やされたほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった」という1節は、マルコ福音書の中でも極めて例外的な箇所なんです。だからこそ尚更、大きな注目に値します。
私はこの1節とにらめっこしながら、ふと、「イエス様の奇跡、あるいは力ある業は、どこで、どんな状況で行われたと言われているんだろう」と考えました。
マルコ福音書をパラパラとめくってみてすぐに気づくことは、イエス様の力ある業は、指導者とか、支配者の間で行われていたのではない、ということです。
イエス様は、多くの場合、「群衆の間」で、神の国の到来のしるしとなる、力ある業を行われます。
エリートたちは、イエス様を信用しませんでした。イエス様に信頼を寄せたのは群衆でした。
社会の中心にいる者たち、指導者や支配者たちは、イエス様に何も期待しませんでした。イエス様に期待をしたのは群衆でした。
そしてイエス様は、自分の周りに集まった群衆を、「私の母、私のきょうだい」と呼ばれたのです。
故郷では、イエス様の家族だけではなく、ほとんどの住民が、イエス様に対して不信を抱いていました。
そのために、故郷のナザレには、イエス様を信頼し、イエス様に期待する群衆の姿がありません。そのために、イエス様は力を行使できなかった、神の国の到来のしるしとなる業を行うことができなかった。
そうマルコの福音書は言うのです。
ここには、この時代、この場所で、神の国を指し示す共同体として教会が成長してゆくための、とても大切なヒントがあると私は思います。
日本でも、そしてかつて宣教師たちを送り出した国々でも、教会は順調に、急速に衰退しています。
教会が衰退し続け、消滅の危機に瀕することになった原因は何か。様々な角度から、色々なことを言うことができるでしょう。
しかし、一つの単純な事実は、教会の語る言葉が、群衆に届かない、群衆を巻き込むことができない、ということではないでしょうか。
ナザレのイエスの力ある業は、彼を信頼し、彼に期待する群衆の間で行われたことを思えば、群衆に届かず、群衆を巻き込むことのできない「福音」は、何かがおかしいということになりはしないでしょうか?
同じことを反対側から言えば、群衆を巻き込むことのできない教会の現実は、「神の国の福音」を語るはずの教会が、ナザレのイエスに対する信頼と期待を失っている、ということを示してはいないでしょうか?
結局、どれほど理想的な場所に、どれほど立派な聖堂があっても、そこにナザレのイエスに信頼し、期待し、群衆を巻き込む言葉として福音を語る人々がいなければ、神の国の力ある業は起こらないのでしょう。
しかしそれは同時に、もし私たちの内に、ナザレのイエスに対する信頼と期待を取り戻すことができたなら、群衆に届き、群衆を巻き込む言葉として、福音を語り直すことができる、ということでもあるのではないでしょうか。
そして、私たちが新たに語る福音が、群衆に届き、群衆を巻き込むことができるなら、この時、この場所で、私たちもナザレのイエスの力ある業を目撃することができるはずです。
私は、多くの人々を巻き込んで、月に一度は、まぁ2ヶ月に一度でもいいんですが、この聖堂が一杯になって、人が外に溢れ出すようにしたいと思っています。
その中から月に10人、あるいは1年に100人、洗礼を受けてイエス様と共に旅をする者が起こされる。そうなったら、本当に素晴らしいと思います。
聖マーガレット教会が、聖霊の息吹によって、群衆に届き、群衆を巻き込み、群衆の間でなされる神の国の働きを見る、群れとされますように。
