










聖霊降臨後第8主日(特定10)
2024年7月14日
アモス書 7:7-15; エフェソ 1:3-14; マルコ 6:14-29
旧約聖書という書庫の中に入っている最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、トーラー(日本語では律法)と呼ばれています。
この5つの書物は、イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセという指導者を通して、神ご自身が与えられた掟と見なされていました。
今日の福音書朗読の背景には、トーラーの中に記された一つの命令があります。それはレビ記の20章21節で、そこにはこう書かれています。
「人が兄弟の妻をめとるなら、兄弟を辱めることになる。それは汚れたことで、その者らに子どもはない。」
これは呪いの言葉という形をとった禁止の命令です。しかし兄弟の妻が、兄弟の妻である限り、他の兄弟が兄弟の妻である女性をめとることはできません。
ですから、この掟が実際に命じていることは、離婚して兄弟の元妻となった女性を、他の兄弟が妻として迎えてはならないということです。
ちなみに、離縁された女性を、他の男性が妻としてめとることには、何の問題もありません。
兄が離縁した女性を、弟が妻としてめとるとか、弟が離縁した女性を兄が妻として迎えるという行為だけが禁じられているのです。
では、その理由は何でしょうか。答えはメンツです。 兄弟が離縁した元妻の女性を、別の兄弟が妻としてめとることが禁じられるのは、その女性を離縁した兄弟のメンツを守るためです。
今日の福音書朗読に出てくるヘロデは、イエス様が生まれた時にユダヤの王だったヘロデ大王の3人の息子の長男で、ヘロデ・アンティパスという人です。
ヘロデ大王の3人の息子たちは皆、違う母親から生まれた腹違いの兄弟でした。
マルコ福音書の著者は、ヘロディアが兄弟フィリポの妻だったと書いていますが、歴史的には間違いです。
ヘロディアの元夫、アンティパスの腹違いの兄弟の名前は「ヘロデ」です。アンティパスの二人の腹違いの兄弟に、フィリポという名前の人はいました。
しかしフィリポは、アンティパスの誕生パーティの席で踊り、洗礼者ヨハネの首が欲しいと言ったヘロディアの娘の婚相手です。
いずれにしても、洗礼者ヨハネが、「自分の兄弟の妻をめとるのは律法違反だ!」と言ってアンティパスを批判していたことは確かです。
しかしヨハネがアンティパスを批判した理由が、妻のヘロディアのことだけだったはずはありません。
権力者のメンツは、ありとあらゆる欺瞞の上に立っていて、その欺瞞を暴かれ、メンツを失うことを何よりも恐れます。それは、自分の権威を失うことだと思っているからです。
欺瞞を暴き、自分のメンツを潰す者の存在に耐えられない権力者は、必ず、口封じに走ります。
アンティパスも、民衆に影響力のあるバプテスマのヨハネによって、自分のメンツを潰されることを恐れて、彼を幽閉しました。
しかし口封じには危険も伴います。最も確実な口封じは、批判者を抹殺することですが、その悪事の大きさの故に、威信を失墜させ、人々の支持を失い、権力の座を追われることにもなりかねません。
アンティパスも、民衆からの信頼を集めていたヨハネを抹殺することのリスクを計算していたはずです。
6章20節は、ヘロデ・アンティパスが、バプテスマのヨハネを「正しい聖なる人」として恐れ、保護し、迷いつつも彼の教えを喜んで聞いていたと言います。
ところが、自分の誕生日を祝う席で、メンツをかけて、大見栄を切ったことで、計算がすべて狂います。
祝宴の席で踊ったヘロディアの娘は、前の夫のヘロデとの間に生まれた子どもです。
福音書の中にはヘロディアの娘の名前は出てきませんが、イエス様とほぼ同時代のヨセフスという人が残した書物を通して、彼女の名前がサロメであったことが知られています。
美しいサロメの舞を見て気を良くしたアンティパスは、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」、「お前が願うなら、私の国の半分でもやろう」と、とんでもない約束をします。
その結果、メンツを守るためにバプテスマのヨハネを幽閉したアンティパスは、メンツを守るために、今度は彼の首を切り落とすことになりました。
この事件から約10年ほど後のことだと思われますが、ヘロデ・アンティパスは、ローマ皇帝ガイウスによって、ガリラヤとペレア地方の領主としての地位を剥奪され、フランスのリヨンに追放されます。
多くのユダヤ人は、ヘロデ・アンティパスの追放劇を、バプテスマのヨハネを殺害したことに対する神の罰だと捉えていました。
マルコ福音書の著者もその線に従って、今日の福音書朗読の物語を書いています。
奇跡的な業を次々と行ない、民衆の人気を集めているナザレのイエスの噂を聞いて、ヘロデ・アンティパスが不安になっている様子が物語の冒頭に置かれているのはそのためです。
バプテスマのヨハネの教えと、彼と袂を分かったイエス様の教えとの間には大きな違いがあります。
イエス様の周りには、徴税人や、律法に従って生きることを放棄した「罪人」と呼ばれる人たち、遊女を含む沢山の女性たちがいました。
ですから、イエス様自身は、ヘロデ・アンティパスの妻が腹違いの兄弟の元妻であったことに、何の関心もなかったはずですし、そのことでアンティパスを批判するということもなかったでしょう。
しかし、権力者の欺瞞を暴き、指導者と呼ばれる人たちのメンツを潰すことに関して、ナザレのイエスの右に出る者はいませんでした。
イエス様は暴力によって社会を変えようとしたことはありません。けれども、権力者や指導者、先生と呼ばれる人間たちの欺瞞を暴き、彼らのメンツを潰し、抑圧者の手から人々を解放しようとしました。
その結果として、イエス様は、バプテスマのヨハネよりもさらに過酷な運命を辿り、十字架という見せしめの刑によって、命を落とすことになりました。
もちろん私たちは、神がナザレのイエスを死から復活の命へと甦らされたことを知っています。しかし、今日の福音書朗読は、復活の命について語るべき箇所ではありません。
私たちは今日の箇所から、欺瞞の上に立てられたメンツというものの恐ろしさを学ぶ必要があります。
支配者、権力者、国の指導者と呼ばれる人たちは、自分の地位と特権、そしてメンツを、命の上に置く人たちです。世界中の紛争で多くの命が犠牲になるときは決まって、権力者のメンツのために、人々が殺されているのです。
先週、医学ジャーナルのランセット (The Lancet) に掲載された論文によれば、ガザのパレスティナ住民の死亡者数は、保守的に見積もっても、18万6千人を超えるとされています。
西洋世界とその同盟国の権力者が、メンツよりも人の命を優先することを知っていたなら、パレスティナで19万人もの人々が命を落とす事態にはなってはいません。
世界中の権力者が、自分のメンツを守ることから解放されたなら、ほとんどの紛争は防ぐことができます。
ところが、権力者が権力者になれるのは、彼らがメンツ求める人たちだからであって、メンツを気にしない人間は権力者になりません。
そこにこそ、権力・統治・支配というものの、最も深い闇があります。
私たちクリスチャンが胸に刻むべき教訓は、権力者のメンツを守ることに仕える教会は、権力者のために人々の命を犠牲にする教会になるということです。それは歴史が証明していることであり、いまだに乗り越えられていない負の遺産です。
メンツを守ることを諦めて、イエスに従う道を進む群れとして成長しようとすることが、世俗権力と教会の結託によって生まれた負の遺産を整理し、乗り越える第一歩となります。
聖マーガレット教会が、ナザレのイエスのためであれば、辱めをも甘んじて受け入れる教会であることができますように。
