聖霊降臨後第9主日 説教

2024年7月21日

聖霊降臨後第9主日(特定11)

エレミヤ 23:1-6; エフェソ 2:11-22; マルコ 6:30-34,53-56

今日の福音書朗読では、マルコによる福音書の6章30節から34節まで読んだ後、35節から52節までを飛ばして、53節から56節までが読まれました。

 もし、福音書の文脈に従って今日の朗読箇所を決めるとすれば、マルコ6章6節の後半から13節までと、30節から44節までを読むのが自然です。

 6章6節後半から13節までは、イエス様が12人の弟子たちに汚れた霊を追い出す権能を与えて、ガリラヤ湖周辺の村々に遣わす場面です。

 そして今日の福音書朗読の初めにあたる30節は、弟子たちが派遣先の村々から帰ってきて、イエス様に報告をしている箇所で、44節まで続く「5千人の給食」の話への導入にもなっています。

 ところが改訂版聖書日課は、テキストの構造と文脈を無視して、34節から53節に飛ぶよう指定しています。このようなテキストの構造と聖書日課との不整合は、「聖書日課」というものの性格をよく表しています。

 年に52回の日曜日には、それぞれ、その日のトピックが割り振られています(特定の季節のトピックは何だかよくわからないことも多いですが)。

 各日曜日に割り振られたトピックは「特祷」に示されていることになっていて、それに「ふさわしい」と思われる福音書が選ばれます。特定11主日の「伝統的」な特祷は、大体こんな内容です。

 「私たちの必要と、私たちの無知とをご存じであられる神よ、私たちの弱さを憐れみ、私たちには何の価値もない故に願うこともできず、盲目の故に求めることもできないようなものを、イエス・キリストの功の故に私たちにお与えください」 (アメリカ聖公会祈祷書の特定11主日特祷 [traditional])。

 この中には無知、弱さ、無価値、盲目という言葉が並んでいます。この特祷には、あえて哲学的な用語を使うとすれば、「存在論的に病んでいる人間」という、非常に否定的な人間観が表れています。

 このような極めて否定的な人間観は、いわゆる「原罪論」」という教義から導き出されています。

 それは、エデンの園で禁じられた木の実を食べた結果、人は神の支配から罪の支配に陥り、神が人を造られた時に与えられた「神の像」が毀損されたという教えです。

 人は生まれながらに滅びに定められ、神に呪われた、存在論的に病める者となったんだ。そう教会は教えてきました。

特定11主日の伝統的特祷は、無知で、弱く、無価値で、盲目な人間を憐れんでくださいという内容です。ここから、イエス様が病める人をすべて癒やされる箇所が、この日の福音書朗読にふさわしい、という論理になります。

 その結果、文脈を無視して「5千人の給食」のエピソードを完全に吹っ飛ばし、53節から56節の「病人の癒し」のエピソードだけを読むようになっているわけです。

 しかし、原罪論を振りかざして教会が人々に教えてきた極めて否定的な人間観は、ナザレのイエスのものではありません。

もちろんイエス様は、悪の力、罪の力、この世の中心にある深い闇を知っていました。しかし彼は、人間が滅びに定められた存在だとか、神に呪われた存在だなどとは思っていませんでした。イエス様は、神の恵みと慈しみはすべての人の上に注がれると信じていましたし、そのように教えました。

 原罪論は、教会が主流派ユダヤ人に対抗して、「イエス・キリストはすべての人の救い主だ」と主張するためのレトリックが生み出した、最悪の副産物です。

 そしてこの教義は、教会の歴史の中で、軍事力による正統教義の強制と集団改宗や、異端審問や魔女狩りに名を借りた拷問から殺人に至る、ありとあらゆる悪事を正当化する根拠として使われてきました。

 人はもともと無価値で滅びに定められた存在なんだから、そいつらを滅ぼしても構わないという理屈です。

 しかしエス様自身は、罪の力や悪の力を、個人の中に見ていたのではありません。イエス様にとって、巨悪の震源地は、政治と経済と宗教の中心にありました。

 もちろん、すべての人の中に、天使も悪魔もいます。悪の力から完全に自由な人というのは存在しません。

 しかし、イエス様が語る神の国に対する抵抗は、常に、権力と金と宗教的権威を握っている「指導者」と呼ばれる人たちから来ています。

 イエス様にとっての群衆は、政治と経済と宗教をコントロールしている指導者よって抑圧され、苦しめられている存在です。

 イエス様の時代、人口の9割は貧しく、絶えざる飢餓状態に置かれる「群衆」でした。栄養状態が悪いために多くの人々が病に冒され、回復力もないために、そのまま命を落としていました。

 群衆を「病に冒された者」としているのは、権力と金と宗教的権威を握っている者たちです。イエス様は病を癒し、悪霊を追放することによって、彼らの支配に寄生する悪の力から、群衆を解放しようとしたのです。

悪の支配から群衆を解放しようとするナザレのイエスを抹殺しようとしたのは、この世で政治と経済と宗教を支配している者たちでした。そして彼らによって、ナザレのイエスは十字架にかけられ、殺されました。

 イエス様が十字架の上で殺された時代の現実は、今、この時代の現実でもあります。何も変わっていません。

 先週の日曜日に、ガザのパレスティナ住民の死亡者数が、最低でも18万6千人を超えるとする論文が、ランセット (The Lancet) に掲載されたことをお話ししました。

 イスラエル軍の爆撃によって直接命を落とすのは、死亡者数全体の1/4くらいです。残りの3/4の人たちは、イスラエルが食糧と水とエネルギーの供給を止めているために餓死するか、本来であれば助かる病気や怪我の人たちが、治療を受けられないために死ぬのです。

 イギリスの首相がスナク (Rishi Snuk) からスタマー (Keir Stammer) に変わっても、アメリカの大統領選で、バイデンが勝利しようが、トランプが勝利しようが、アメリカとイギリスを中心とする西洋の植民地主義的政治は、まったく変わりません。イスラエルによるパレスチナ人の虐殺も止まりません。

 日本の政治もジョークです。先日の都知事選の候補者を見てください。ほとんどの候補者は、排外主義者かひやかし目的の茶化し屋でした。

 次の総選挙がいつなのか知りませんが、政権が変わっても、この国がアメリカの傀儡に過ぎないという現実は変わりません。

 ナザレのイエスの時代も今も、この世の政治はサイコパスと金の亡者によってコントロールされています。

 ですから、政治に多くを期待する者は、必ず失望することになります。この世の支配者が民衆の解放を実現するかのような期待を抱くことは、奴隷商人に奴隷の解放を期待するようなものです。

 しかし同時に、サイコパスと金の亡者が支配する政治に対して無関心を貫けば、それは自分の暮らし向きのために、多くの人々を奴隷にし、多くの命を犠牲にする生き方を選び取ることになります。

 それでも私たちが生きていけるのは、植民地主義的な政治によって搾取され、金のために殺される群衆の側にいないからです。

 より辛辣な言い方をすれば、金のために人を犠牲にする支配者の側に私たちがいるからです。

 そこで、皆さん、私と一緒に、この現実に、気まずさを感じてください。後ろめたさを感じてください。その気まずさから、その後ろめたさから、目を逸らさないことが重要なんです。

 イエス様に従った群衆は、「自分が正しくはない」ことを知っている人たちです。「正しく生きられない」という気まずさを、後ろめたさを感じているからこそ、彼らはイエス様を追い求めました。

 「悪に手を染めずに、誰も犠牲にせずに、正しく生きることなんかできない」という気まずさと後ろめたさが、私たちの中から無くなったら、ナザレのイエスは不要になります。

 イエス様に従って、解放を求めて、神の国を追い求めて生きることは、サイコパスと金の亡者が支配する政治によって犠牲になっている人々の側に立って、彼らと共に生きようとすることです。

 私たちが不正に蓄えた富を、正義を奪われ、生活の糧を奪われ、生きる術を奪われた人たちと共に生きるために用いるとき、私たちは神の国の祝宴の席につくことになります。

 神の国のために働き、人々を解放するために働くことを願うなら、この世の支配者によって「病める者」とされている人たちと共に生きる道を選び続けなければなりません。

 気まずさを感じながら、後ろめたさを感じながら、ナザレのイエスと共に歩み続ける者であることができますように。