













2024年07月28日
聖霊降臨後第10主日(特定12)
列王記下 4:42-44; エフェソ 3:14-21; ヨハネ 6:1-21
今日の福音書朗読は、先週の福音書朗読で飛ばされた「五千人の給食」と呼ばれる物語です。
この「五千人の給食」の物語は、新約聖書に収められている福音書と呼ばれる最初の4つの書物、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に出てきます。細部については違いがあるものの、物語の全体的構成は、ほとんど同じです。
これが意味するのは、「五千人の給食」の話は、一番古い福音書、マルコ福音書が書かれる以前の段階で、 Oral tradition, 「口伝」として固定化し、普遍化していたということです。
あらゆる地域の教会で、ほとんど同じ「五千人の給食」の物語が語られていたんです。
福音書という書物は、伝記でもなければ、歴史書でもありません。それはノン・フィクションと、フィクションと、歴史小説を足して3で割ったような、イエス様を主人公にした物語です。
ですから、「五千人の給食」の原型となるような、歴史的な、特定の出来事があったのかどうかということはわかりません。
歴史的に、確実に言えることは、イエス様が語った「神の国」の原点には、食事があったということです。その食事は、生物学的に命を維持するための、単なる栄養摂取ではありません。
イエス様の周りには、娼婦や、徴税人や、「神の掟」に従って歩まない、あるいは歩めない、「ならず者」と見られている人たちが、沢山集まっていました。そしてイエス様は、彼らの仲間として、彼らが開いてくれるパーティーの場で、食べて、飲んで、歌って、踊ったのです。
恐らく、「五千人の給食」の元になる原体験というのは、こういうものではないでしょうか。
イエス様が語る神の国の福音を聞いて、今風に言えば、多くの人が「イエス推し」になりました。イエス様がいく所には、どこにでもイエス推しの人たちが押し寄せて、人だかりになります。そしてイエス様は、あちこちで、ファンに囲まれて、彼らと一緒に食事をしたはずです。
赤の他人であった人たちがイエス様の周りに集められ、その教えに魅了されたイエス推しの人たちが、イエス推しコミュニティーになったわけです。
「五千人の給食」の物語の背後には、様々なイエス推しコミュニティーが共有する、「イエス様が中心にいる食事」という共通経験がある、そう私は思っています。
イエス様の大ファン、Jesus Freak たちが、人が人として生きるために必要なものを神から与えられた恵みとして、祝福として受け止め、最も貧しい人々と共に、恵みと祝福を分かち合うコミュニティーとなれたなら、そこに集うすべての人が、豊かに生きることができます。
少年が持っていた、何の役にも立たないと思われた5つのパンと2匹の干し魚が、イエス様の前に差し出されると、そこにいたすべての人が満ち足りるまで食べた後、食べ始める前よりも多くのパンが、12のカゴ一杯のパンが余った。
この「五千人の給食」の物語は、イエス様の言葉に従って、互いに仕え合え、互いに分かち合う者たちから成る「イエス推しコミュニティーの」中心には、イエス様ご自身がおられ、そこではすべての人が豊かに生かされるんだ。
そればかりか、さらに多くの人をその中に招き入れても、その人たちと共に、豊かに生きることができるんだ。そう、私たちに教えているのではないでしょうか。
イエス様が語った神の国の命というのは、この世にあって始まります。ナザレのイエスはこの世での命を喜び、楽しみました。彼はパリピーでした。パーティーが大好き人でした。
イエス様の生き方には、禁欲主義的なところはまったくありませんでした。だからこそ彼は、生きていることの喜びが満ち溢れ、命が咲き誇る神の国の姿を、大宴会のイメージで表したのです。
そしてイエス様は、神の国を否定する生き方をする者たちに、激しい批判を浴びせました。神の国を否定する生き方というのは、命を否定する生き方です。命を否定する生き方というのは、自分の豊かさのために、自分の暮らし向きのために、人々を犠牲にすることです。
ナザレのイエスに言わせれば、人を犠牲にして豊かになる道は滅びの道なのです。
イエス様にとって、神の国を否定し、命を否定し、滅びの道を歩む代表的存在は、支配者と呼ばれる人たちであり、自分のために富を蓄える金持ちでした。
人々が自分を捕まえて王として担ごうとしているのを知ったイエス様が、独りでこっそりと山に退かれたという15節の言葉は、イエス様推しの人たちが作るコミュニティーは、この世の支配者の道を退けなくてはならないという警告です。
しかし教会は、この警告を忘れて、ナザレのイエスをこの世の王にしました。
より具体的には、教会がローマ帝国の体制に取り込まれていく中で、教会の指導者たちは、イエス・キリストの栄光と皇帝の栄光、つまりこの世の支配者の栄光とを、意図的に混同するようになりました。
先週、24日の水曜日、パレスチナ人に対する虐殺を主導し、国際刑事裁判所から戦争犯罪人として逮捕状が出ているネタニヤフが、アメリカの議会で演説をしました。
ネタニヤフの演説に対して、49回の standing ovation が起きたといいます。それはあたかも、ヒトラーを議会に呼んで、ユダヤ人問題の最終解決を熱弁する彼の演説に、拍手喝采するようなものです。
ちなみに、ロシアが出場停止になった今回のオリンピックに、パレスチナ代表は15人しかいません。残りの342人は、シオニストに殺害されたからです。
この異常な出来事を引き起こした大きな責任は、ナザレのイエスを、この世の王にした教会にあります。
シオニストの暴虐を可能にしているのは、ユダヤ人シオニストの10倍から30倍いると言われる「クリスチャン・シオニスト」と呼ばれる人々です。
クリスチャン・シオニストを生み出し、パレスチナに悲劇をもたらしたのは、大英帝国とその教会、Church of England です。
そうです。私たちアングリカンは、イエス・キリストを、この世の王にした教会なんです。
しかしナザレのイエスは、暴力によって支配され、民衆が武力によって鎮圧される世界の中で、神の国を映し出すような生き方を始めるようにと、彼の追っかけたちに命じました。
イエス推しコミュニティーに与えられた使命は、生きていることの喜びが満ち溢れ、命が咲き誇るような世界を先取りして生きることです。
そのためのマニュアルはありません。けれども、そのために私たちにできることがあります。それは、この世の王としてのイエス・キリストを捨てて、「五千人の給食」のイエス様に立ち返ることです。
聖マーガレット教会が、群衆に食べさせ、群衆を養いたいと願われた主を共同体の中心に迎え、この世で最も貧しい人たちを招き、彼らと共に豊かな命を生きる、「イエス推し」コミュニティーとして成長することができますように。
