聖霊降臨後第13主日 説教

2024年8月18日(日)聖霊降臨後第13主日(特定15)(B年)

箴言 9:1-6; エフェソ 5:15-20; ヨハネ 6:51-58

プロテスタントの教会の多くは、土曜日の夕方とか、あるいは日曜日の朝に、掲示板や大きな看板を立てて、「説教題」というものを大々的に掲げます。かつては聖公会でも、いわゆるLow Church系の教会では、説教題を掲げるところがあったようです。

 昨日、ふと、今日の説教に説教題をつけるとしたら、どんな題になるんだろうと思い巡らしてみました。そうしたらすぐに、「命のパンなるイエス・キリスト vs 聖餐式」という題が思いつきました。

「一体どういうことだ?」と思われましたら、ぜひ、この後の話を寝ないでお聞きください。

 実は、私たちが「ヨハネの福音書」として読んでいる書物の背後には、原著者の他に、複数の編集者がいます。最初の著者が書いた書物に、後で、最低でも2人以上の人が加筆をしているんです。

しかも、話を非常に複雑にしているのは、後の編集者たちが、ヨハネの福音書の原著者と正反対の主張を加えていることです。そして、今朝の福音書朗読の箇所は、編集者が原著者の意図を、完全に裏切っている箇所なんです。

 ヨハネ福音書6章全体は、「命のパンなるイエス・キリスト」というテーマに貫かれています。このテーマを設定したのは、ヨハネ福音書の原著者です。

 6章22節から50節までの間には、「35 私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(v 35)、「私は命のパンである」(v 48)「これは天から降って来た生けるパンであり、これを食べる者は死なない」(v 50)という言葉が出てきます。

 しかし、ここに出てくる「命のパン」は聖餐式のパンではありません。「これを食べる者は死なない」と言われるときの「食べる」という言葉も、聖餐式のパンを食べることを意味してはいません。

 ヨハネ福音書の原著者が、「命のパンであるキリストを食べる」と言うときに何を意図していたのかは、4章の「サマリアの女」の話を通して明らかになります。

イエス様がサマリアの女と話していたとき、十二弟子たちは食糧を買うために町へ出かけていました(4:8)。食べ物を調達して帰って来た弟子たちは、「先生、召し上がってください」と言って、イエス様に食事を勧めます(4:31)。するとイエス様は「私には、あなたがたの知らない食べ物がある」と答えます。

 そしてヨハネ福音書の原著者は、イエス様の口を借りて、弟子たちが知らない食物とは何かをこう説明します。

 「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(4:34)。

 ヨハネ福音書の原著者にとって、命のパンであるイエス・キリストを食べて、永遠の命を得るということは、神の言葉、神のロゴスであるイエス・キリストを信じ、彼の言葉を実践するということでした。

 サマリアの女との話の中で、イエス様は「命の水」として描かれますが、命の水であるイエス・キリストを飲むことも、命のパンであるイエス・キリストを食べることも、どちらも比喩的表現であって、意味は同じです。

 ヨハネ福音書の原著者は、聖餐式をしている教会があることを、もちろん知っています。彼は共観福音書の存在も知っていますし、その中で「最後の晩餐」がどのように描かれているかも知っています。

 ところがヨハネ福音書の原著者は、13章で、共観福音書に記されている「最後の晩餐」の場面を、完全に書き換えます。

 まず、共観福音書の「最後の晩餐」にあたる13章の話の中には、イエス様と弟子たちとが一緒に食事をする場面がまったくありません。

 その代わりに、ヨハネ福音書の原著者は、イエス様が弟子たちの足を洗う様子、いわゆる「洗足」の場面を描きます。そしてイエス様は、弟子たちの足を洗い終わった後に、弟子たちに向かってこう命じます。

 「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(ヨハネ13:14, 15)。

ここでヨハネ福音書の原著者は、聖餐式をしている教会に反対して、聖餐式ではなく、洗足を行うようにと、自分が所属する共同体に命じているのです。

これは、神の言葉であるイエス・キリストを信じ、その言葉を実践することによって永遠の命が得られるという原著者の神学と、完全に一致しています。

 ところが、今日の福音書朗読で読まれた箇所は、明確に、聖餐式について語っています。

 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(v 53)、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」(v 54)、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」(v 56)。

 これらの言葉が、聖餐式のパンとぶどう酒を表していることは、疑いの余地がありません。しかし、これらの言葉を記しているのは、ヨハネ福音書の原著者ではなく、後の編集者です。

ヨハネ福音書の原著者から、6章51節から56節の編集者との間には、どんなに長くても、20年から30年のギャップしかないはずです。ところがその2, 30年の間に、ヨハネ福音書の原著者が所属していた教会には、劇的な変化が起こっています。

 今日の福音書朗読箇所の存在は、教会共同体がどれほど大きく変わったかということを証ししているのです。

聖餐式を拒否する教会が、聖餐式をするようになりました。そして、ヨハネ福音書の原著者にとって、もっとも重要だった洗足は、消えて無くなってしまいました。この劇的変化は、キリスト教化が進むプロセスと重なっています。

 多くのクリスチャンが忘れていることですが、イエス様は「クリスチャン」ではありません。ナザレのイエスは、キリスト教徒ではありません。

 かと言って、彼は「ユダヤ教徒」でもありませんでした。彼は「ユダヤ教徒」から「罪人」、「サマリア人」、「ベルゼブルの力で悪霊を追い出す者」、つまり悪魔の軍団に属する者として嫌悪されていました。

 ナザレのイエスは「特異な人」、「特別に、他の人々と異なる人」でした。一言で言えば、「変人」です。

 聖餐式を拒否していたヨハネ福音書の教会で聖餐式が行われるようになり、洗足が姿を消し、キリスト教化が進むにつれて、教会は自己弁護的になり、多様性を失って画一的になり、exclusiveになり、賜物の豊かさよりも家父長的権威が強調されるようになり、信仰の内容は魔術的になっていきました。

 今日の福音書朗読箇所を書いた編集者は、聖餐式で陪餐に与る者たちだけが終わりの日に甦り、それ以外の者たちは死んだままだと考えています。

 もちろん、聖餐式のパンとぶどう酒に与ることができるのは、極めてexclusiveな、排他的な共同体に属するメンバーだけで、この人たちだけが救われます。

 イエス様がその中に家族を見出し、神の国を見た、罪人たちの祝宴、パーティーは、一体どこへ行ってしまったのでしょうか?キリスト教化が進むプロセスは、ナザレのイエスを忘れていくプロセスとも重なっていたということは、紛れもない事実だと、私は思っています。

 教会の強固な伝統である「聖餐式」の中にすら、ナザレのイエスに対する裏切りがあるわけです。

 先週の木曜日、8月15日は、日本が壊滅的戦争に敗れてから79年を記す日でした。第二次世界大戦から79年後の世界は、第三次世界大戦一歩手前の世界です。

 大英帝国は没落しても、西洋の帝国主義はアメリカに引き継がれただけで、終わりはしませんでした。

 帝国主義と植民地主義と結びついた教会も、帝国主義とも植民地主義と手を切ることができず、ナザレのイエスを裏切り続けています。

 今日、福音書朗読として読まれたテキストは、ヨハネ福音書の共同体が、どれほど劇的な変化を遂げたかを私たちに示しています。もちろん、変化は肯定的なものでも、否定的なものでもあり得ます。

 確かなことは、新約聖書という書物が書かれていた時代の教会すらも、一枚岩でもなければ、安定的でもなく、劇的な変化をしていたということです。

 そうだとすれば、私たちは平和を作る者となるために、神の国の喜びと豊かさを示す共同体となるために、ナザレのイエスに帰り、聖霊の息吹を受けて、変わるべき時を迎えているのではないでしょうか。