










聖霊降臨後第14主日(特定16)(B年)2024年8月25日
ヨシュア24:1-2a,14-18; エフェソ6:10-20; ヨハネ6:56-69
今日は(8時からの)礼拝に、日曜学校の幼稚科お泊まり会に参加した子どもたちが一緒に出席していました。
日曜学校の先生たちからは、子どもたちにもわかりやすい、短い説教をするようにというプレッシャーを受けておりました。
しかし、あいにく、今日の福音書朗読の箇所は、ひじょ~に扱いにくい、難しい箇所で、とてもわかりやすく、短くお話しすることはできません。
かと言って、「我慢して、話を1時間お聞きください」と言うわけにもいかないので、今読んだ聖書の箇所の中から1節に絞って、お話をいたします。
それは63節です。そこにはこう書かれていました。「63 命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
ここにいる私たちはみんな生きています。私たちが生きているということは、私たちはみんな、命を持っているということです。
私たちはいろんなものを持っていますけれども、命を持っているってどういうことでしょうか?
私が持っているものをいくつか挙げてみましょう。私は自転車を持っています。服を持っています。靴を持っています。腕時計を持っています。それにパソコンとスマホを持っています。
今私が例として挙げたものはどれも、目と、手で、「そこにある」ということを確認できるものです。
けれども、私たちが「もつことのできるもの」の中には、目で見たり、触ったりすることのできないものも沢山あります。
自転車は目に見えます。触ることもできます。でも、「自転車に乗る能力」、スキルは目に見えません。
でも、目には見えないけれども、私たちは、自転車に乗るという能力を持つことができます。
同じように、パソコンも、スマホも、目に見えますし、触ることもできます。
でも、みなさんのパソコンやスマホを使う能力、スキルは目で見ることも、手で触れることもできません。でもみなさんは、それを持っています。
ところが、みんなが家で飼っている犬や猫は、パソコンを見ることはできるし、スマホに触ることもできますが、パソコモンやスマホを使う能力、スキルを持つことはできないんです。
なぜでしょうか?どうしてサザエさんちのタマや、チンパンジーのパン君は、パソコンやスマホを使う能力を持つことができないんでしょうか?
それは、猫も犬もチンパンジーも、みんながもっている「あるもの」をもっていないからです。みんなはもっているけれども、猫も犬もチンパンジーも持っていないもの。
さて、それは何でしょうか?それは「ことば」なんです。ちょっと難しい言葉で言うと言語です。
みんなは、「どうして自分は話をすることができるんだろう?」って考えたことがありますか?
実は、どういうわけか、人間だけが、言葉を持っています。私たちだけが話をすることができるというのは、とても不思議なことです。
世界中には、言葉の研究をしている学者さんが沢山います。言語学者と言われる人たちです。でも、未だに、言葉とは何か、言語とは何か、わからないんです。
私たちはみんな、当たり前のように言葉を話しているのに、言葉が何かわからないんです。なぜ私たちだけが、言語を持っているのか、誰も知らないんです。
そして同じことが、命についても言えます。私たちは今、命を持っています。だから生きています。でも、命はとっても不思議なんです。
私たちが住んでいる地球は、天の川銀河という銀河の中にあります。そして、この天の川銀河の中には1,000億から4,000億の星があると言われていますが、なぜかこの地球だけが、命に溢れています。
宇宙の全体には2兆の銀河があって、それぞれの銀河には何十億、何兆という星があります。でも、命が溢れている星は、恐らく、この地球だけです。
他の銀河にも意識を持った生命が存在している証拠が続々と現れる、なんてことは、多分、ありません。
ところが、命がどこから来たのか誰も知りません。もう少し正確に言うと、命が星屑、star dustを原材料としていることはわかっています。
でも、なぜ命が生まれたのか、命とは何なのか、これほど科学が進んでも、未だにわからないんです。
命とのつながりで、更にわからないことは、なぜ命が意識を持った存在となり、私たちのような言語を持つ存在を生み出すことになったのかということです。
私たちみんな、命を持っています。命をもっているから生きています。そして、命に溢れた星の上で、さまざまな命に囲まれて生活しています。
さらに私たち人間は、毎日、当たり前のように話しをしています。言葉を持っています。
あまりにも当たり前すぎて、「どうして私たちは言葉を持っているのだろう」なんて考えようとも思いません。
でも、私たちが生きているということも、さらに言葉を話す命とだということも、とてつもなく不思議なことなんです。
私たちは「言葉を持った命」です。ヨハネの福音書を書いた人は、私たちの命と、他の動物との命は、まったく別の次元にあるんだ、レベチだと思っていました。
それはどういうことかと言うと、私たちがチンパンチーや猫のタマとまったくおんなじ生き方をしていたら、人として生きていることにならないということです。
「言葉を持った命」である私たちには、チンパンチーやオラウータンや犬や猫とはまったく違う、目指すべき生き方が、ゴールがあります。
けれども、そのゴールに到達するためには、言葉をもった命の完成形に至るためには、「肉」は役に立たない、そうヨハネの福音書を書いた人は言います。
「肉」というのは、犬も猫もオラウータンも人も、動物として生命を維持するために必要とするものです。
犬も猫もオラウータンも人も、食べる物が無ければ生きていけません。生命を維持できません。
でも、それだけでは、「言葉をもった命」である人間の命は完成しません。ゴールに辿りつけないどころか、ゴールがどこかを知ることができません。
それでは何が必要なのか。それはイエス・キリストだと、ヨハネ福音書を書いた人は言います。
言葉を持った命として、私たちを完成へと導くことができるのは、神様の言葉であり、命であるイエス・キリストだ。
それが、ヨハネの福音書の今日の箇所が、私たちに語ろうとしていることです。
言葉を持った命として花を開かせるために、私たちがイエス・キリストに根ざして成長することができますように。
