聖霊降臨後第15主日 説教

聖霊降臨後第15主日(特定17)

2024年09月1日

申命記4:1-2,6-9; ヤコブ1:17-27; マルコ7:1-8,14-15,21-23

 これまでも何度か説教の中でお話をしたことがありますが、私の大学時代にお世話になった恩師に、ホアン・マシアというイエズス会の神父さんがいます。

 彼は上智大学の生命倫理の教授で、日本に生命倫理という学問を紹介した人でもあります。

 マシア先生がスペインから帰って来て、再び上智で教え始めた時、私は学部の3年生で、先生の影響で生命倫理の領域に足を踏み入れました。

 それから6年に渡ってマシア先生のもとで学べたことを、私は今でも神様に感謝しているんですが、実はマシア先生は、現代版イエス様みたいな人でもあります。

 マシア先生は、「これこれの本の中であいつが書いていることは異端だ」と言われて、度々、敵対者からバチカンに訴えられていたんです。

 要は、「マシアはローマ・カトリックのRule Bookに従っていない!」と言って非難されていたわけです。

 今日の福音書朗読の中でイエス様は、「どうしてお前の弟子たちは手を洗わないで食い始めるんだ!」と、ファリサイ派や律法学者から非難されています。

 イエス様は、「お前の弟子たちには衛生観念がまったくない!」と言って怒られているわけではありません。

 当時のユダヤ人にとって、食事の前に手を洗うか、洗わないかは、「そこにいる人間が自分の仲間になるか、それとも排除すべき人間か」を見極める基準でした。

 イエス様の時代も、今も、「ユダヤ教」というものが、一枚岩として存在しているわけではありません。

 あえて言えば、「ユダヤ教」というのは、「共通の掟に従い、汚れを避け、自分を清く保つことによって、神の祝福を受けようとする者たちの集団」です。

 問題を単純化するために、サマリア人を無視して話をしますが、イエス様の時代のパレスティナには、モーセ五書、律法を神の掟と見做す複数のユダヤ人グループが存在していました。

 福音書の中に出てくるファリサイ派とサドカイ派の他にも、エッセネ派というグループも存在していました。

 これら3つのグループはどれも、「律法に従って、汚れを避け、清さを追求して、神の祝福を求める集団」という点では同じなのに、互いに激しく敵対していました。なぜでしょうか?

 それは、それぞれのグループが、律法の具体的運用を定める、異なるRule Bookを持っていたからです。

 つまり、それぞれのグループは互いに、自分たちのRule Bookに従って生きる者たちだけが清くて、神に祝福されている。他のRule Bookに従っている連中は汚れていて、神に呪われている。そう思っていたんです。

 これは、同じRule Bookに従う者たちだけが、自分たちの仲間になれるということを表しています。

 手を洗わずに食事をするイエス様の弟子たちは、ファリサイ派と律法学者と同じRule Bookに従って生活をしてはいません。

 ということは、ファリサイ派と律法学者たちにとって、イエス様の弟子たちは排除すべき存在だということになります。

 イエス様の生き方の中で最も驚くべき点は、「律法に従って生きる」気がまったく無いことです。

 互いに敵対するユダヤ人グループも、「律法が神の掟で、それに従って清い生活をすることで、神に祝福されるんだ」という理解だけは共有していました。

 ところがイエス様は、そもそも律法に従って清い生活をする気が、まったくありませんでした。

 ですからイエス様は、「旧約聖書を引用して自分の正しさを証明する」ということにも、まったく関心がありませんでした。

 それは福音書の背後にあるユダヤ人教会の、あるいは教会のユダヤ人メンバーにとっての関心事であって、イエス様にとってはどうでもいいことでした。

 神の掟とされる「律法」を、イエス様が極めて軽く扱っているのには理由があります。

イエス様は、ルールがすべて、人間によって作られたということを知っていたんです。たとえ作られたルールが、「神の掟」と呼ばれようとも、それは人が作ったものだ。イエス様は、そのことをよく知っていました。

 ルールに関して言えば、イエス様は minimalist でした。彼は Rule Book に従って生きることにも、新しい Rule Book を作ることにも関心がありませんでした。

 もちろん、人はルール無しには、人として生きることができません。しかし、人が作り上げるルールは往々にして、排除の原理になります。

 一つ、具体的な例を挙げますと、ヨーロッパ諸国は長い間、増え続ける難民に頭を悩ませています。

 ヨーロッパでもアメリカでも、自国中心主義や、自民族中心主義を掲げて移民排斥を訴える政党やグループが勢力を伸ばしています。

 ヨーロッパの外からやって来る連中は、自分たちと同じ Rule Book に従って生活をしていない、排除するべき存在だという論理が、今でもきちんと働いているということです。

 ところが、ヨーロッパやアメリカの人たちがコロッと忘れていることは、自分たちこそ、呼ばれもしないのにアフリカ大陸に行き、北米大陸に行き、中南米に行き、オーストラリア、ニュージーランドに行き、さらには中東にまで出かけていったという歴史的事実です。

 しかも彼らは、「自分たちで作ったルール」によってアメリカ大陸を自分のものにし、アフリカ大陸を自分のものにし、中東を自分のものにしました。

 さらに、「自分たちが作ったルール」によって、先住民は自分たちが道具として使ってもいい存在だということにしました。

 植民地支配を貫くのは ‘divide and rule’「分割し、分断して治める」という原理です。恣意的に引かれた境界線によって、アフリカも中東も分断され、分断によって引き起こされた対立が今に至るまで続いています。

 対立を固定化することで自分たちの権益を維持する西欧諸国は、対立する勢力に武器を売り払い、その武器が、シリアで、イラクで、アフガニスタンで、アフリカ諸国で、難民を生み出し続けています。

 しかし、自分たちの作り上げたルールによって世界中で土地を奪い、資源を奪い、先住民を奴隷としてきた国々が、今、再び、自分たちにとって都合のいいルールを作って、難民をよそ者として排斥しようとしています。

 ちなみに、西洋の植民地主義者とおんなじことを、私たちもしてきました。

 和人は北海道を奪い、琉球を奪い、大日本帝国となって以降は、中国、朝鮮半島、東アジアへと侵略に出かけていきました。

 先日、国交相の人間で、災害対策を専門とする昔の友人と会って話をしている時に、北海道の農業労働者の大部分がネパール人になっていると聞かされて、非常に驚きました。

私が更に驚いたのは、法律的には、彼らは日本に労働者としては存在しないことになっているという話でした。彼らは、いわゆる「不法就労外国人」扱いになっているんです。

北海道の農業労働を実質的に担っているネパール人を、就労者として正式に受け入れると、日本の法律を適用し、最低賃金も、労働条件も、健康保険も補償しなくてはならなくなります。そうなると、彼らを安い労働力として使うことはできません。

 国のルールを作る人間たちは、安い労働力を確保し、補償問題を免れるために、意図的に彼らを不法就労者状態に放置しているんです。

 ちなみに、日本に拠点を置いてブローカーをしているネパール人は、実質的な人身売買で大儲けをしているそうです。

 私たちが生きているこの世界は、ごく一部の人間の特権を永続化するために作り上げられた「秩序」と「ルール」によって、大多数の人間が踏み躙られる世界です。ルールが、強力な排除の原理として働く世界です。

 そんな世界が定めたルールに従って生きることの中に、ナザレのイエスが語った神の国の正義も、神の国の平和もあるはずがありません。

 先ほど触れた防災の専門家の友人と、以前、東京教区が経済的に破綻していて、このままでは持たないという話をしたことがあります。

 私の嘆きを聞いたその友人からは、「日本経済の破綻の方が早いから大丈夫だ」と、わけのわからない慰めの言葉が返ってきました。

 しかし、その後に彼が語った言葉が、とても印象的でした。「国や組織が破綻しても、人間が破綻しないこと」が大事なんだ。そしてクリスチャンの平和主義者には、「壊れても、何度でも建て直すという意志が必要なんだ。」

 人間の破綻を防ぎ、壊れたものを建て直す働きを担う。そのために私たちが必要とする神の国のルールは、たったの4つです。

 「仕えること」、「分かち合うこと」、「ゆるすこと」、「憐れみの心に従って動くこと」。これだけです。

 これが、ナザレのイエスに従って、正義と平和を実現したいと願う者たちを導くルールです。

 聖マーガレット教会が、「仕えること」、「分かち合うこと」、「ゆるすこと」、「憐れみの心に従って動くこと」によって、人間の破綻を防ぎ、壊れたものを建て直す働きを担う群れとされますように。